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文禄・慶長の役(朝鮮出兵 – 秀吉の唐入り)について解説!

文禄・慶長の役を解説

天下統一を賭けて、戦い続けた戦国時代。終止符を打ち、天下人となったのは豊臣秀吉でした。

秀吉は、低い身分(農民の出とも言われています)から出世し、天下人にまでなった立身出世を絵にかいたような戦国武将。若いころから苦労して出世を遂げたため、人の心を掴むのが上手。多くの大名を取り込みながら日本を統一していきました。

chise

外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

ところが日本を統一し、これから平和な時代が来ると皆が思った矢先、秀吉は海外へ戦争をし始めました。それが今回ご紹介する、文禄・慶長の役です。

では、文禄・慶長の役とはどのような戦いだったのでしょうか。

文禄・慶長の役の原因

応仁の乱から続いた日本の戦乱は天正19年(1591)9月、豊臣秀吉によって統一されました。しかしその前月8月に秀吉が驚くべきことを全国の大名に布告します。

翌年に「唐入り」(中国大陸侵攻)を決行する、と言い出したのです。

なぜ豊臣秀吉が日本の統一後に明へ侵攻し始めたのでしょうか。その理由は未だにわかってはいません。ただ、もともと秀吉には明国(当時、中国大陸を支配していた国)へ進出する構想を持っていました。

秀吉が、具体的に海外進出の構想を示した史料があります。

天正13年(1585)9月3日付の文書です。秀吉の家臣が書いた文書の中に「日本のことは当然として、中国大陸まで進出する命令を出される御心だろうか」と秀吉の心情を推測しています。

天正13年といえば秀吉が関白になり、中部地方から近畿・中国・四国地方までを勢力圏に治めた頃です。しかし、まだ九州・関東・東北が残っています。そんな早い段階から日本の平定後の事を考え、身近な家臣に中国大陸進出の構想を語っていたようです。

天正15年(1587)頃になると、話も具体的になっていき多くの大名に話をしています。この年には対馬を治めていた宗氏に対し「日本へ帰属するか、拒否する場合には征伐する」と朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮に伝えるよう命じます。

ですが、秀吉の命令は急すぎて無理がありました。宗氏は朝鮮王朝との関係を考慮し、双方に都合の良いように報告。この「都合の良い報告」が、この先も日本・明・朝鮮王朝の実務者間で繰り返されてしまい、さらに事態を複雑化させていきます。

豊臣秀吉の目的は明の征服にありました。
しかし、いきなり明へ侵攻するのではなく、まず朝鮮に圧力をかけ、日本への帰属を求めました。

これは当時の船が陸地の景色から自分の位置を知るしか航行ができなかったので、いきなり日本から明へ大軍を送り込む方法がありませんでした。そのため、朝鮮王朝に圧力をかけ朝鮮半島を通って明へ向かう計画を立てていました。

秀吉は朝鮮との戦争を見越し前線基地となる名護屋城(現在の佐賀県唐津市)を築城します。

天正18年(1590)、朝鮮王朝より朝鮮通信使が日本へ使者としてやってきます。

そして天正19年(1591)に帰国した朝鮮通信使は日本で見聞した事を国王へ伝え、日本が攻め込んでくる可能性を報告しましたが、朝鮮王朝内では政権争いがありその報告は無視されました。そのため、日本の侵攻前に準備ができておらず、開戦後に苦しむことに・・・。

天正20年(1592年)、秀吉側から朝鮮王朝側へ最後通牒がなされ3月末までに従わなければ、朝鮮へ出兵することが決定されました。

文禄の役

天正20年(1592)3月、西国から奥羽までの大名までが動員を命じられます。

これにより、実際に動員されたのは約16万の兵。その他、約5万丁もの火縄銃、最新の大砲も装備した軍勢でした。文禄の役の陣立書によれば、朝鮮に出兵するのは西国大名が中心でした。そして、軍団は地域的にまとめられ,1万~2万人程度のグループを構成されます。

中核には織田家や豊臣家で立身した大名が配置。そして秀吉が日本で統一する間に従った大名を実際に動員するような体制がとられていました。

遠征軍が編成された後、秀吉とその官僚たちは名護屋城(佐賀)へ赴きそこを本陣として指揮を執る体制を整えます。

天正20年4月、日本の先発隊が釜山に上陸し鎮圧。
翌5月には首都漢城(現・ソウル)に達し、朝鮮の王は逃亡します。さらに7月には北部の平壌(ピョンヤン)まで進撃し明の国境まで進軍。

しかしその同じ月、初めて明軍と戦闘を行っています。日本の朝鮮進出を見て、明が参戦したのです。

そして明の本隊が動き出したのが12月。朝鮮軍と合流し北部から南下を開始します。

文禄2年(1593)の碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、小早川隆景、宇喜多秀家らの日本軍が李如松の率いる明軍を破ったものの、応援に来た明軍も侵攻した日本軍も食料不足に陥り、双方が手詰まりの状態となります。

また、朝鮮の武将李舜臣が率いた水軍の攻撃や民衆蜂起などによって、秀吉軍の士気は上がらず休戦することになりました。

これを受け、明軍は沈惟敬を派遣。日本側から小西行長と加藤清正が参加し三者で会談を行います。この講和交渉は日本と明との間で行われ、文禄2年(1593)4月、講和の条件に合意しました。

文禄の役はおよそ1年続き、休戦することになります。

慶長の役

文禄5年(1596)9月、豊臣秀吉は日本へ来た明使節と謁見しました。

ところが秀吉は明との講和条件に関し、自分の要求が受け入れられていないと知り激怒。それぞれの国の担当者は、秀吉には「明が降伏した」という報告を、明王朝には「日本が降伏した」という報告をしていたことが原因でした。

これは日・明双方の講和担当者が穏便に講和を成立させるため、それぞれ嘘の報告をしていたのです。秀吉は使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定しました。

和平交渉が決裂し西国諸将に動員令が発せられると、慶長二年(1597)正月ふたたび朝鮮に出兵します。

これに対し、朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令。

7月に出撃します。しかし攻撃は失敗しました。さらに帰路、巨済島沖の漆川梁で停泊していたところ、この情報を得た日本軍は水陸から攻撃する作戦を立てます。そして朝鮮側の軍船のほとんどを撃沈し壊滅的打撃を与えました。

海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍(及び水軍)の二隊に分かれ進撃を開始し朝鮮半島中部へ進みます。ところが今回の出征は、前回の文禄の役の時よりも現実的な作戦を立てて侵攻していました。

朝鮮半島の西側と東側を進軍し、朝鮮王朝と明軍を押し返した後、半島南部に引き上げ城を築いたら大部分の軍は日本へ引き揚げます。その後、年月を掛けて占領した地域から再び進軍、領土を拡大する作戦を立てていました。

そのため、進軍した日本軍が朝鮮南部まで後退すると、文禄の役で築かれた城郭群域の外側に新たな城郭群を築き恒久領土化を目指します。

これに対し、明軍と朝鮮軍が再度攻勢に。

慶長2年(1597)12月、築城途中の蔚山倭城に入った加藤清正が防戦しながら食料不足で飢餓に遭います。城は落城寸前となりますが、援軍もあり辛うじて守り切る程の苦戦となりました。慶長3年(1598)以降、城に籠って防衛線を守る日本軍と再三攻める明軍・朝鮮軍との戦いが続きます。しかし、全体から見れば日本の立てた作戦通り進んでいきました。

MEMO
漆川梁海戦、泗川の戦いで大活躍したのが島津義弘です。「島津義弘ってどんな人!?戦国時代最強の武将とも言われる人物の生涯」の記事では島津義弘の生涯について詳しく解説しています。
島津義弘ってどんな人!?戦国時代最強の武将とも言われる人物の生涯 島津義弘ってどんな人!?戦国時代最強の武将とも言われる人物の生涯

ところが、慶長3年(1598年)8月に戦争を仕掛けた豊臣秀吉が死去。以後、幼い息子の豊臣秀頼が6歳で家督を継ぎ、有力大名の5大老と5奉行で政権運営を行います。

しかし確固たる中心人物のいなくなった豊臣政権は、大名間の権力を巡る対立が顕在化。もはや、対外戦争を続けられる状況ではありませんでした。

そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま有力大名たちにより帰国命令が発令され、朝鮮半島で戦っていた日本軍は本土へ撤退。ここに文禄・慶長の役が終わります。

文禄・慶長の役の影響

休戦期間もありましたが、日本・朝鮮・明の戦いは6年間にも及び、その後大きな影響を与えました。

明は朝鮮への援助の他にも、寧夏(現在の中国、寧夏回族自治区)、播州(現在の中国、四川省)で起こった反乱に多額の出費がかかります。また皇帝・万歴帝の贅沢な生活の支出もあり、これらが原因で急速に弱体化してしまいました。

のちに女真族の侵攻をうけ、明は滅亡し新たに清国が誕生しました。侵略を受けた李氏朝鮮もまた、弱体化します。戦争での痛手や社会制度の不安から、国力が衰え清の侵攻を受けた後に服属する事となりました。

日本では、終戦直前に豊臣秀吉が亡くなり6歳の秀頼が後を継ぎました。しかし、文禄・慶長の役に参加した大名は兵役による出費に悩まされます。

その為、無理な税の取り立てで補おうとして内乱が起こったり、家臣団同士が争ったりして弱体化する大名も出てくる始末。

一方で、国内最大の領地を有していた関東の徳川家康は、九州まで兵を進めるだけで直接戦争に参加しませんでした。これにより、家康は力を維持したまま文禄・慶長の役が終戦。

この参加した大名と徳川家との差が、豊臣政権の基盤を危うくする結果に繋がりました。

五大老の筆頭であり、朝廷内でも武家の最高位となった徳川家康は和平交渉でも主導権を握り、実質的な統治者として振舞うように。

これに対し豊臣政権の5奉行、特にその中心であった石田三成との対立に発展していき、関ヶ原の戦いが勃発します。

戦いに勝った家康は、慶長8年(1603)に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府をひらきます。その後、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし江戸時代が続いていきました。

また、日本と李氏朝鮮との間でも慶長の役直後から和平への道を模索されます。日本と朝鮮王朝との間の和平交渉は、徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められました。

日本は断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、朝鮮側に通信使の派遣を打診。

それを受けて、朝鮮王朝はまず日本の内情探索のため使者を対馬に派遣します。このとき、征夷大将軍になっていた家康は宗氏に命じて使者を呼び寄せ、慶長10年(1605)伏見城で会見しました。

朝鮮王朝は、日本側の実権が豊臣家から徳川家に移ったことや徳川家の意向を確認。こうして慶長12年(1607)、日本と朝鮮との間で和平が締結されました。

まとめ

以上、秀吉のおこなった文禄・慶長の役について解説してきました。

朝鮮・明にとっても、日本の諸大名にとっても、もちろん秀吉にもいい結果とならなかった戦いだと言えます。しかし、織田信長だって日本を統一したら海外へ出兵する構想を持っていたとも言われています。

そして当時の西洋は、大航海時代後半。ヨーロッパからアメリカ・アジア・アフリカ大陸へ飛び出して探検していた頃です。海を越えていきたいと思ったのは、権力者の共通する思いだったのでしょうか。

Chise&大山俊輔