いかに内容の豊富な図書館でも、不整頓であるならば、はなはだ小さいけれども整理の行き届いた書庫ほどの利益も与えない。これと同様に、いかに多量の知識でも、自己の思慮がこれを咀嚼したのでなければ、反復熟慮したわずかの知識より、その価値ははるかに乏しい。
(ショーペン・ハウエル『読書について』)
大山俊輔
ここ数年、読書魔になってました。気になった本があれば、どんどんAmazonでポチッとなをして、積ん読状態。仕事が早めに終わったときは、近所のスタバに行って読みまくる。そんな時期が数年ほど続きました。
おかげで、この数年で1000冊近い本を読んだと思いますが、一方で、最近自分の中で別の危機感も生まれました。それは、自分の頭で考える能力が落ちてるんじゃないかって。
実際、私と一緒に事業を手伝ってくれている妻は読書をほとんどしません。
ですが、時に私にはない「動物的カン」があります。突然、ぱっとひらめく時のあの鋭さはどこから来てるんだろう。そう考えると、答えはシンプル。
ずっと「考えつづけている」ことなんです。
一時、速読、フォトリーディングなど様々な読書法が流行りましたが、私にとっての究極の読書法は「体験との紐付け」です。
そこで、このエントリでは読書のバランスについて書いてみました。
目次
過酷な時代
平成から令和へ。新しい時代の幕開けではありますが、今の時代ってなかなか過酷な時代です。
この20年、時代は想像以上に変化しました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「経済の落第生」へ。デフレによる社会の分断にテクノロジーの進化も乗っかってきたことで、今の時代を生きる私達は先人の生き方のコピペがしにくい時代です。
お正月に実家の家族と会えば、
「あなたも、そろそろ結婚して・・・・」
とか、
「持ち家は一国一城の主である証だぞ・・・」
といった会話にうんざりしている人も多いことでしょう。
この一番の原因はなにかといえば、時代の変化が急すぎて世代間に価値観の共有ができなくなってきているからです。日本は新卒時のステータスが生涯つきまとう社会システムでもあります。2000年以降のデフレ経済の定着で、新卒時の就職状況に応じて、正社員・公務員組と、それ以外の人達の間にも大きな価値観の断絶が生まれました。
こうなると、かつてのようにサラリーマンの息子はサラリーマンに。お父さんと同じようにフラット35でローンを組んで家を郊外に買って、満員電車で通勤しながら老後を迎える。
そんな人生が送ることが困難になりました。
また、運良く逃げ切れたとしても、黄昏研修のような厳しい現実が待っています。
となると、自分の生き方は自分で探すしかありません。そのためには、やはり自らの知識を啓発し、自分自身が自分の人生の舵取りをするための羅針盤が必要な時代がきたのではないでしょうか。
ある意味、過酷な時代ではありますが同時に「自分の人生は自分で選ぶ」という人本来のあるべき時代になったとも言えるでしょう。
趣味で読書がしにくい時代
私は読書というのは、多読も、速読も、遅読もなんでもありじゃないかと思ってます。その時その時、自分にあった読み方してればいいんじゃないの。です。
読書とは人生である
読み方はさておき、一つ大事なことがあって読書は単なる趣味ではなく人生である。
ということです。
先程のように、親や先輩を参照にして同じような人生を送ることが難しくなった時代、結局の所、自分の頭で考えていくしかありません。
確かに読書というのはそのための考え方となる思考の土台を作るためにはとても必要なプロセスです。自分自身にとっての「人生」「幸せ」あるいは「満足」とは何なのか。人によっては、何も考えず、親のモノマネでそうなったような気になって死ねるラッキーな人もいるでしょうが、平成・令和の時代を生きる私達の中でそんな死に方ができる人は少数派です。
国も企業も学校の先生もそんな呑気な人生設計を後押ししてくれることはありません。あなたが、超がつく大企業や公務員でない限りは。でも、今の時代の方が自分で考えることを要請されます。知らずに国や会社に人生のレールを引いてもらうより、生活は厳しいかもしれませんが、自分なりに人生を考えて終えることができるという方が本当に意味で人生をより良くすることができる可能性も増えたと言えます。
そのためには、自分自身の幸福を考えるベースとなる教養が必要なのは言うまでもありません。
読書=最安値の学びの手段
この点において、私は読書は最も身近で格安な手段だと思っています。
なぜなら、本というのは著者の人生や研究結果の総大成でもあるからです。
著者の人生でずっと考えてきたこと、体験してきたこと、そして、葛藤してきたことの自分なりの結論をわずか1000円ちょっとのお金と2~3時間の時間で疑似体験をできる。
これほどパフォーマンスの良い投資は他にはないのではないでしょうか。
読むだけでは問題解決ができない
一方で、はじめの話に戻りますが疑似体験には危険もあります。
つまり、自分で読んで分かってしまった気になったり、読書そのものが自己目的化して分かってしまった気になることです。いわば、かつての『ホットドックプレス』やエロ本を読んで女心をわかった気になっている中学生みたいなものです。疑似体験は大事ですが、そこに自分のリアルな体験が重なり合ってはじめて相乗効果を生み出すのです。
今回はショーペンハウエルの引用が多くなりますが、彼はこのようにも言ってます。
熟慮を重ねることによってのみ読まれたものは、真に読者のものになる。食べ物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
私も気づけば、読後の満足感から根拠のない全能感を持ってしまうことがあります。これは危険だなぁと思います。
自分の「課題」とどう結びつけるか
なぜ、ただ闇雲に読むことが危険なのでしょう?それは、人それぞれの人生の「課題」は自分自身のものであり著者やその本そのものがあなたの「課題」を解決してくれるわけではないからです。
ショーペンハウエルは著書『読書について』でこう語っています。
実際、真理と生命とを有するのは、自分自身の根本思想だけである。何となれば、人が真に面してまったく理解しうるのは、自己の根本思想のみだからである。われらの読んだ他人の思想は、他人の食物の残滓であり、知らない客の脱ぎ棄てた衣である。 読んで知った他人の思想と、われらの心のうちに浮かび来った自己の思想との関係は、石に残った前世界の植物の印象が、春の花咲く植物に対するのと同じである。
(ショーペン・ハウエル『読書について』)
つまり、読むことは否定しないが結局のところ本当に大事なのは「自分自身の根本思想」だけである。と。
速読・乱読・復読と人生経験の繰り返しがセレンディピティを生み出す
いかがでしょう。
読書が素晴らしいことは言うまでもないのですが、読書との付き合い方はバランス感覚が必要だということです。確かに、20代~30代の時間が余っているときには、とにかく読みまくる。そして、うんちくを語るちょっと頭でっかちなやな奴になる。それも必要な時期です。
ただ、そのまま40代、50代を迎えて人生の収穫期も過ごしてしまうと単なる頭でっかちなやつのままです。そうならないようにするには、やはり、外に出て様々な人生体験をすることです。
では、人生体験とは何なのでしょう?私にとっては、人生体験とは挫折とそこからの学びです。
挫折というのは、自分の能力・脳力以上のことに挑戦し、失敗し、そして更に新たな挑戦をする経験と言いかえることができます。
失敗を通じて、自分の頭で必死に考えて新たな仮説を立てて再挑戦する。
この過程の繰り返しこそが人生の楽しみだと思います。
また、読書が真に役立つのはこの体験の前後の仮説立案と失敗後の振り返りの時です。
「あ、そういえばあの著者が言っていたことはこういう意味だったのか」
こうした体験が読書と重なり合うとき、はじめてすごいパワーを生み出します。まさに、「セレンディピティの祝福」です。
ですが、このセレンディピティとの出会いには必ず自分の「体験」と「葛藤」が必要です。
まとめ
いかがでしょう。
読書は素晴らしいものですが、やはり、自分の人生体験といかに結びつけて血と肉に変えていくかは、更に大事だと言えます。
そう考えると、人生において一時的に読書の鬼になることも大事ですが、それ以降はどんどん挑戦して失敗しながら、時に本に戻って考えたりする。この繰り返しこそが読書を通じて人生を豊かにするために大事なのではと思います。
「読書」→「挑戦」→「失敗」→「再挑戦」→「読書」。
死ぬまでこのループを繰り返していそうな気がしました。
ハビットマンShun