大山俊輔
いつこの男について書こうか悩んでいましたが、今回、思い切って書くことにしました。
メフメト2世
この名前を聞いてハッとした人は多少なりとも世界史好きだった人でしょう。
あるいは、「コンスタンティノープルを陥落させた人」というところまで答えられる人はひょっとすると塩野七生さんの『コンスタンティノープルの陥落』を読まれた方かもしれません。
ヨーロッパ人にとっては「破壊者」「キリスト教最大の敵」「第二のルシファー」「血にまみれた君主」と憎しみを込められたニックネームを与えざるを得ないほどの天敵。
そして、自らを「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」と呼称してしまうあたり、この厨二病感は我が国を代表する第六天魔王こと織田信長と重ね合わすところもある人です。
日本では知名度が決して高いとは言えないこの人ですが非常に面白い(そして、周囲の人は相当大変だったことでしょう)人生を歩まれています。そこで、このエントリではメフメト2世を私なりの「天才厨二病君主」視点でご紹介します。
目次
苦労人!メフメト2世の人生
では、メフメト2世とはどんな人なのか。
その人生をサクッと紹介します。詳しく知りたい人はしっかりとWikipediaや『コンスタンティノープルの陥落』を読んでくださいね。
背景
アナトリア(小アジア)辺境にいたトルコ系の遊牧民の小さな君公国から発展したオスマン朝。
トルコ人といえば、今ではどこにでもあるシシカバブ屋の濃い顔をしたおじさんたちを思い浮かべますが、そのルーツといえば北アジアのトルコ系の帝国突厥と言われています。
恐らく、その頃はほぼモンゴル人と区別がつかないようなあっさりとした顔だったのでしょう。騎馬民族であり、その高い武力を買われた彼らはイスラム世界に重宝され初期はマムルーク(奴隷)として、そして、その後集団で中東から小アジアに流れ込みます。
大山俊輔
そんなわけで、各地に流入しつつ混血した結果、今のトルコ共和国のトルコ人が誕生します。実際には、トルコ人とギリシャ人はDNAはほぼ同じと言われています。侵略を通じた混血だけではなく、アナトリア(小アジア)にいた原住民のギリシャ人がトルコ系の文化を受け入れることでトルコ人になった人も数多くいると思われます。結局のところ、民族とは言語であり文化でもあるのです。
初期はイスラム戦士としてキリスト教勢力と戦い、そして、時には同じイスラム勢力とも戦いながら小アジアで領土を広げ帝国としての基盤を築き上げます。そして、第4代「雷帝」とも言われるバヤジット2世の時代には小アジアだけでなくバルカン半島にまで進出します。
ところが、帝国の偉業はここで一時中断します。
東からやってきた、中央アジアの強国ティムールにアンカラの戦い(1402年)で破れバヤジットは捕虜に。帝国は瓦解します。
ティムールの捕虜となるバヤジット2世
メフメトは瓦解から立て直しが一段落した時に誕生しました。
この頃には、オスマン帝国はティムールに奪われた失地をほぼ回復しています。
幼少期から帝位の返上という屈辱
メフメトはムラト2世とヨーロッパ出身の奴隷ヒュマ・ハトゥンの子としてエディルネ(旧アドリアノープル)で生まれました。子供の頃から、ギリシャ文明はじめヨーロッパにも理解と興味を示していたとされ、子供の頃にはこんな絵も書いていました。
かなり変わり者だったことがわかりますね(笑)
そんなメフメトはわずか12歳の時に父ムラトより帝位を譲られます。
ですが、幼少期のメフメトの周囲にはムラトの老臣たちがガッチリと周囲を固められ自分のやりたい政策を行う余地はありません。そして、周辺諸国には中欧の強国ハンガリー、ポーランドや南方にも白羊朝などの強国など、息を抜く間もありません。
こうして、ハリル・パシャはじめムラト時代の老臣達によりメフメトは廃位。父ムラトが一時的に復位します。
このあたりは、日本の天才厨二病、若き日の織田信長もはじめ「尾張のうつけ」と馬鹿にされ、弟信行を擁立する柴田勝家ら老臣との関係に気をもんだのと似ていますね。
天才厨二病~とにかく打倒アレクサンドロス大王!
しかしながら、運良くメフメトには好機が訪れます。
1451年に父ムラトが急死したのです。
屈辱を味わったメフメトは捲土重来を待っていましたが、この機会にエディルネに到着したメフメトは2度目の即位を行います。この時わずか19才。
しかし、彼は子供の頃からの夢がありました。
それがローマ永遠の都でもあるコンスタンティノープルの征服です。
ピーク時(ユスティニアヌス帝時代)の東ローマ帝国
この頃のコンスタンティノープルを治めていたのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)。帝国と名はつくものの、かつてユスティニアヌス1の時代には、ヨーロッパ~中東から北アフリカまで治めた広大な領土も削りに削られ残されるは帝都コンスタンティノープルとその周辺のみ。
とはいえ、この都は都市を囲む城壁の総延長は約26km。
当時の世界では最強を誇る城壁に囲まれた恐るべき城塞都市でした。
コンスタンティノープルの城壁
この壁が26km続くと思うと攻める側も凹みますね(笑)。
この街を陥落させることを夢見るものなど一体どこにいるのか。
いや、いました。この人です(笑)。
はじめに出てきた肖像画はルネサンス期ヴェネチアの画家、ジェンティーレ・ベッリーニに書かせたものです。
ですが、こちらはイスラム風に書かれた肖像画です。
横に並ぶは我が国が誇る天才厨二病織田信長。
どちらも、眉間の神経質な感じと鷲鼻が似ていますよね(笑)。
ついに帝都陥落
子供の頃からアレクサンドロス大王に憧れていた少年メフメトはついに軍を出動させます。帝国が動員した兵は80,000~200,000名と伝えられますが、少なくとも100,000名近い兵を動員したと言われています。
守るビザンツ側は同盟都市であるヴェネツィアとジェノヴァからの援軍を加えて7000名。
兵数では圧倒的不利ではありますが、かつてもイスラム帝国はじめ数多くの外敵から守ってきた世界最強の城壁を頼りにオスマン帝国からの降伏勧告を拒否します。
1453年4月2日にメフメト率いるオスマン軍はコンスタンティノープルを完全包囲。しかし、攻城戦は圧倒的兵力を誇るオスマン軍の攻撃を何度と押し返します。ときにはハンガリー人技師ウルバンの作った全長8mはあったといわれる巨大大砲(ウルバンの巨砲)の攻撃も弾き返しまします。
さらに、膠着状況を打開すべくメフメトはオスマン艦隊を封鎖された金角湾に入れるべく、海抜60メートル以上の山を越えさせたり(オスマン艦隊の山越え)、以前紹介したハンニバルのアルプス越えのような奇抜な作戦を展開したりもします。
オスマン艦隊の山越え
しかしながら、こうした最新鋭の大砲による攻撃や、艦隊の山越えといった奇抜な作戦も一時的な心理効果はあるものの、鉄壁のコンスタンティノープル壁は破れません。こうして攻城戦は長期化。攻撃側も守備側も疲労困憊となります。
最後の東ローマ皇帝・コンスタンティノス11世
しかし、攻城戦開始から2ヶ月近くが経過し城内の兵士や市民たちも疲労困憊、いよいよ敗北が近づくことをさとります。陥落前日となる5月28日の夜、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は大剣を抜き払い、 皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、こう演説します。
「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。 都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。 死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」
コンスタンティノス11世は家臣一人一人に大帝国最後の皇帝となるであろう自らの不徳を侘びたそうです。本当の人徳者であった最後のローマ皇帝ですが、生まれた時期が悪すぎました。そして、敵が悪すぎました。
その翌日である5月29日未明にオスマン帝国の最後の総攻撃がはじまります。
乱戦のさなか、最後までオスマン軍を押し返していた、ジェノヴァ人の傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニが負傷します。これをきっかけに、流れはオスマン軍有利になります。そして、ケルコポルタ門の通用口が施錠されていなかったことを発見した、オスマン軍は帝都になだれ込みます。
ローマ皇帝、コンスタンティノス11世は、こうしたなか最後まで現場で指揮を取り続けます。しかし、城壁にオスマンの旗が翻ったのを見て敗北を受け入れます。ビザンツ(東ローマ)帝国の国章である双頭の鷲の紋章を破り捨て、皇帝の衣装を脱ぎ去ると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と絶叫し、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消して、乱戦の中、聖ロマノス門近くで戦死したと言われます(死体は見つからず)。
コンスタンティノープルに入城するメフメト2世
こうして、アウグストゥス以来続いた地中海に冠たるローマ帝国は、新興勢力であるオスマン帝国の若き君主メフメトの手により滅びました。実に西ローマ帝国が滅びること1000年のことでした。
大山俊輔
コンスタンティノープル陥落後のメフメト
コンスタンティノープルを陥落させたメフメトは当初、降伏勧告を無視したことに対する処罰として兵に3日間の略奪を許します。これは当時の軍隊のルールとして命がけの兵士たちに当然の権利でした。
が、メフメトは数時間後に思いとどまり略奪禁止の命令を出します。
おそらくは中世世界最大最強の都市であるコンスタンティノープルとこの街を1000年以上に渡り守ってきたビザンツ帝国、そして、最後まで戦い戦死したコンスタンティノス11世に対して敬意の念があったのでしょう。
そして、かつてのギリシャ正教の聖地であったアヤソフィア寺院はイスラムのモスクとして生まれ変わりました。
モスクに生まれ変わったアヤソフィア
治安を回復した後、城内に残ったキリスト教徒たちの自由は保証され、敵対していたジェノヴァ人にも東ローマ時代と同じ商売上の特権を与えます。そして、ゲオルギオス・スホラリオス(ゲンナディオス2世)をコンスタンティノープル総主教に叙任するなど、敵対していたキリスト教勢力との融和に努めます。
生意気な宿老を粛清する
そして、ついにメフメトに復讐のときがやってきます。
かつて、幼少期に帝位についたとき「力不足だから」と廃位され、そして、コンスタンティノープル攻略にも最後まで反対したと言われるハリル・パシャは利敵行為を働いた罪で処刑されます。
このあたりは、織田信長と佐久間信盛の関係と似ていますね。信長も、幼い頃から邪魔で仕方なかった宿老佐久間信盛を高野山に追放しますが、その我慢の期間は20年以上。それだけ我慢した信長と比べると、我慢期間は短くて済んだようです(笑)。
ちなみにハリル・パシャの出自はチャンダルル家。
アナトリア(小アジア)のトルコ系の名門です。
一方、ハリルの処刑後に大宰相となったのはザガノス・パシャ。
ギリシャ系ともバルカン半島からのデヴシルメ(徴用)出身者とも言われています。つまり、ヨーロッパ人です。
メフメトからすれば、出身母体たるトルコ系の名門の人間はどうしてもしがらみがついてきます。一方、キリスト教圏出身の改宗者は利害関係がありません。絶対君主となり自分の望む帝国を築き上げるためには、こうしたヨーロッパ人のほうが有用と判断したのでしょう。まさに、かつてのイスラム世界が中央アジアから大量のトルコ系の青年をマムルークとして輸入し、兵士とし一部は貴族、王族にまで栄達したのと似ています。イスラム版アメリカンドリームですね。
その後のオスマン帝国の大宰相(Grand Viziers)の出自を見てみることにしましょう。
なんと、ほとんどがギリシャ、セルビア、アルバニア、中には敵国ハンガリーやイタリアなどヨーロッパ系であり、こうしてみてみても、オスマン帝国というのが非常にユニークな多国籍民族から成り立つ帝国であったことがわかります。
このあたりの人材登用術は、父信秀時代の尾張の宿将よりも、明智光秀、細川藤孝、そして、裏切り大好き松永久秀など征服国で登用した家臣を数多く重用した織田信長とも似ていますね。
周辺諸国の征服
コンスタンティノープルを征服し、この街を帝都とした後のメフメトは引き続きヨーロッパから中東の強国と戦いを続けます。代表的な戦いとしては、セルビア、ペロポネソス半島(ギリシャ)、ワラキア(ルーマニア)、トレビゾンド帝国、ロードス島のヨハネ騎士団、そして、中東の白羊朝との戦いがあります。
実は、メフメトといえば、コンスタンティノープルの偉業が目立ちますが、この頃のオスマン帝国の国力はまだまだ。
中欧の強国ハンガリーには英主フニャディ・ヤーノシュ、ワラキアにもドラキュラのモデルにもなるヴラド・ツェペシュが即位しオスマン軍を苦しめます。また、アジア側でも白羊朝の英主ウズン・ハサンとの戦いに苦戦するなど、その征服活動は一進一退を続けます。
ワラキア候ヴラド・ツェペシュ。別な意味でヤバい人です(笑)
1480年、メフメトはイタリア半島南部に艦隊を派遣しイタリア南部のオトラントを占領します。恐らく、メフメトはコンスタンティノープルに続き、かつてのローマの首都があったイタリア半島の征服を考えていたとも言われています。
しかし、この頃メフメトは重い病におかされていました。
病身のメフメトは1481年東方に向けて親征を開始しますが、目的地は明かされませんでした。一説には、東に向かったのは目くらましでその目的地はローマであったと言われています。しかし、メフメトは行軍のさなか、陣没します。陣没したのはイスタンブールから東50kmのゲブゼ。奇しくも、この地は古代ポエニ戦争の英雄、カルタゴのハンニバル・バルカが亡命して自害した場所でもありました。
ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯メフメトの死を知ったローマ教皇、キリスト教の聖職者、ローマ市民は歓喜し、祝祭を開いたとも言われています。
キリスト教・ギリシャ文化は敵だけど大好き
さて、こうしてヨーロッパでは極めて恐れられ、評判の悪いメフメトですが彼自身は先程紹介したようにヨーロッパ文明(厳密には古代ギリシャ文明)に対して高い敬意を持っていました。自らの偉業とアレクサンドロス大王を重ね合わせるあたりはかなりぶっ飛んでますよね(笑)。
実際、イスラム世界の君主で、自らのベンチマークする偉人をヨーロッパ世界に持ってきた人物は恐らくメフメト2世だけだったのではないでしょうか。彼自身、トルコ語のみではなく、アラビア語とペルシア語といったイスラム世界の教養人にとっての共通語を理解しそして、イタリア語とギリシア語についてもかなり使いこなすことができたそうです。いやぁ、羨ましい語学力(笑)。
特にコンスタンティノープル征服の後、東ローマ皇帝の書庫より120冊におよぶギリシア語の書籍を自身の書庫に加えたと言われています。その中には、ホメロスの『イリアス』、クセノポンの『アナバシス』、ヘシオドスの『神統記』はじめ名だたるギリシャ古典から、トマス・アクィナスの『神学大全』まで並んでいたそうです。
ヨーロッパ人からは残虐な扱いを受けるメフメトですがその周辺には先程のヨーロッパ出身のザガノス・パシャはじめ、ペルシア人、イタリア人、ユダヤ人など異民族が多く登用され、トルコ系の家臣の間でむしろ不満が漏れ聞こえたそうです。一方で、こうした多文化な空気あふれる宮廷には、さらに数多くの文化人が訪れます。
ジェンティーレ・ベリーニ
本ページのサムネの肖像画を書いたジェンティーレ・ベリーニもその一人です。メフメトはイスラム的ミニアチュールな写実も、ビザンツ的なゴリゴリ宗教的な写実も理解を示していましたが、よりルネサンス的西洋画家に興味を示していたようです。確かに、西洋画の方がリアル感がありますからね。イスラムでは人物画は基本禁制ですが、メフメットは細かなことは気にしていなかったようです(笑)。このあたりは、一人西洋甲冑きたりマントを羽織っていた織田信長とも似ていますね。
また、コンスタンティノープルの陥落はもう一つの副次的な影響がありました。それは、西欧社会に亡命したビザンツの人々が、ルネサンスの発展に大きく貢献したことです。メフメト自身の西欧文化への傾倒とこうした経緯から彼は皮肉にも、ルネサンス君主の1人に数えられることもあるほどです。
残念ながら、メフメトの後の皇帝たちはどちらかといえばイスラム回帰が進み宮廷から多文化が共存する空気は失われました。
このあたりは、スペインやポルトガルの宣教師を歓迎した派手派手大好きだった織田信長~豊臣秀吉の安土桃山的な気風と、その後の鎖国してしまった江戸時代の対比しても非常に似ていますね。
カエサルになりたかった?
ガイウス・ユリウス・カエサル
そして、彼の面白いところはコンスタンティノープルを陥落させた直後。
こんなことを言ってます。
なんと、自らを
「ルーム・カイセリ 」(Kayser-i-Rûm(カイセリ・イ・ルム))
と名乗ります。
カイセリとはつまりカエサル。
ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。
カエサルという言葉はローマ皇帝=ローマ帝国という意味を持ちます。ローマの後継者、あるいは、その末裔たる自覚を持つヨーロッパの皇帝は、中世から近世にかけて、カイザー(Kaiser:ドイツ)、ツァーリ(Tsar:ロシア)などといった呼び方で皇帝を名乗ります。
大山俊輔
では、なぜ、イスラム世界の帝王たるメフメトがあえて、カエサルと名乗ったのでしょう。
これは、恐らく自らが滅ぼしたローマ帝国ですが、彼自身こそがその灰燼の中から新しく生まれた新生ローマの後継者と自認していたからなのでしょうか?この伝統は、その後の壮麗王スレイマン一世も同様に西欧諸国との外交で、自らをカイセル(قيصر, Qayṣar/Kayser) 、つまり、ローマ皇帝と名乗っています。
オスマン帝国最盛期の皇帝:スレイマン1世
大山俊輔
こうした経緯から、歴史学者の中にはオスマン帝国を「ネオ・ビザンティン帝国」(新しい東ローマ帝国)と称する人もいます。あたかも、カールの戴冠によりフランク人(ゲルマン系)で全くローマと関係のないカール大帝がローマ皇帝を称したのと似ていますね。とはいえ、メフメト自身は公的な立場としては、スルタン(イスラム世界の君主)であり、ハーカーン(トルコ系の君主。モンゴルのハーンと同じ)であり、ちゃんとトルコ人としてのアイデンティティをしっかりと大事にしていました。
まとめ
いかがでしたでしょう?
教科書では、「1453年、オスマン帝国が東ローマを滅ぼす」の1行で終わってしまう出来事ですが、これだけの物語がこのメフメト2世という人物を主人公としてあったのです。
そして、今でこそ保守的で排他的なイメージを持つ人の多いイスラム世界ですがメフメト時代のイスラム世界がいかに多文化に理解を示し、そして、技術や文化を導入することに積極的であったかがわかります。はるかにこの時代のイスラム世界はキリスト世界よりオープンですし文明的にも科学技術的にも勝っていました。
ヨーロッパがオスマン帝国に対して優位を確立するのはこれから200年先の第二次ウィーン包囲の失敗(1683年)以降です。
ですが、領土を削られながらも多民族国国家としてのオスマン帝国は第一次大戦まで存続します。”Sick man of Europe”(ヨーロッパの瀕死の病人)は大阪の閉店セールよろしく、死にそうでなかなか死なないのです(笑)。ですが、そんなオスマン帝国もついに第一次大戦以降のトルコ革命で滅亡。そして、滅びた灰燼の中から、ケマル・アタテュルクという一人の大天才の奇跡的な活躍を通じて、トルコ共和国として生まれ変わるのです。
このあたりは、以前、ケマル・アタチュルクについてのエントリを書いていますのでぜひ読んでみてくださいね。
私の人生を変えた偉人 – 世界史No1のチート、ケマル・パシャ(アタテュルク)を好きなわけありがとうございました!
大山俊輔