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平清盛 | 日宋貿易、貨幣経済の導入など大河では扱われなかった革新的な男の生涯

平清盛 日宋貿易、貨幣経済の導入など大河では扱われなかった革新的な男の生涯

平安時代も後期になると、武士が台頭してきました。
その中でも、名が知られているひとりに平清盛がいます。

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外資メーカー勤務。幼少期に歴史にはまりおとなになってから更に磨きがかかるいわゆるレキジョ。日本史、中国史、ほか急かし何にでも手を出す歴史好き。

平氏と言えば「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」の平家物語。
その平氏の最盛期を作った平清盛とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。

平清盛ってどんな人?

奈良・平安時代は、天皇や貴族が政治を動かした時代でした。
特に、平安時代藤原氏が摂関政治によって権力を握った時代。藤原道長・頼通親子の頃、最盛期を迎えていました。

しかし、長い時代を経て制度に矛盾が発生し、閉塞感が生まれます。
その政治制度を打ち崩し、武士で初めて政権を打ち立てたのが平清盛でした。

清盛は日宋貿易で財政を安定させ、宋から貨幣を導入して日本でも流通させます。

また、貿易で必要な港の整備を通して公共事業をおこし、経済政策の充実を図りました。さらに厳島神社を創建し、西日本を中心に政治の安定を目指します。

幼少期〜全盛期

幼少期

平清盛は、永久6年(1118)1月18日、伊勢平氏の長である平忠盛の長男として生まれました。
母については、具体的なことは分かっていません。

白河法皇の晩年の寵姫であった祇園女御、或いは白河法皇や祇園女御に仕えていた女性(そのため、白河法皇の子を身ごもって平忠盛に嫁いだため、清盛の父は白河法皇という説もあり)、また祇園女御の妹、など諸説あります。

ただ、祇園女御の庇護の下で育ち、幼いころから異例の出世を遂げています。
白河法皇の御落胤説も、この異例の出世により当時から信じられていたようです。

清盛は成長すると安芸守に任じられ、瀬戸内海の支配権を手にして父の忠盛と共に西国へと勢力を拡大しました。
また、西日本の主要な航路であった瀬戸内海を支配することで海運による運営利益を手中にします。この頃から宮島の厳島神社を信仰するようになりました。

仁平3年(1153)、父の忠盛の死後、平氏一門の棟梁となります。

保元、平治の乱

平清盛が平氏の棟梁を継いだ時代。
平安末期に藤原摂関家が衰退します。代わって政治を実質的に行っていたのは上皇でした。上皇は天皇を退位し、代わって子息や兄弟を天皇とします。そして政治経験の薄い天皇を後見しながら、上皇が政治を主導する体制です。これを院政と呼びます。

保元元年(1156)、当時の藤原摂関家の内紛を契機に崇徳上皇と後白河天皇との間で争いが起こりました、保元の乱です。

後白河天皇の側には貴族であり、学者でもあった信西(俗名は藤原通憲)が側近として指導しました。そして崇徳上皇、後白河天皇の両派に藤原氏や平家、源氏がそれぞれにつきます。

平家は、清盛が後白河天皇側へ、叔父の平忠正(清盛の父、忠盛の弟)が崇徳上皇につきます。7月11日、後白河天皇側は崇徳上皇側を夜襲。その結果、崇徳上皇側は総崩れとなり後白河天皇が崇徳上皇の院政を打ち破りました。

ここに後白河天皇を中心とし、信西が政治を主導する体制に移ります。

信西は、平清盛を重用するとともに婚姻関係を築いて、信西と平氏の関係を強固にしました。ところが、もともと後白河天皇は二条天皇が即位するまでの繋ぎとして即位したにすぎませんでした。そのため、後白河天皇は二条天皇に譲位し、自らは上皇となります。

上皇となった後白河天皇と新たに即位した二条天皇の間には確執が続きます。
また、後白河天皇の側近内部でも信西に対する反感があり、対立していました。この反信西側には東国を根拠地としていた源義朝(源頼朝の父)など多くの源氏の武士が参加しています。

平治元年(1159)12月9日、後白河上皇の側近で反信西の中心人物であった藤原信頼と源義朝とが信西のいる三条殿を襲撃。一度は逃亡に成功した信西でしたが、追っ手に追いつかれ自害してしまいました。

こうして、後白河上皇の側近で反信西派の藤原信頼と源義朝が、政治の中心となります。ところが、信西が亡くなった事で二条天皇派と反信西派とが協調する理由がなくなり、反目します。

側近の信西を殺された後白河上皇の後ろ盾がなくなり、二条天皇とも反目した結果、藤原信頼、源義朝は孤立しました。ここに、二条天皇は平清盛に対して両名の追討宣旨が下され、京の六波羅で戦闘となり藤原信頼、源義朝を撃退。平治の乱です。

藤原信頼は処刑され、源義朝は関東へ戻る途中に討たれました。

こうして後白河上皇の側近であった信西は自害し、藤原信頼は処刑されたため、急速に後白河上皇の権力が弱まります。ところが、二条天皇の側近もまた後白河上皇へ政治的な圧力を掛けたため、上皇に命じられた清盛により捕縛されました。

後白河上皇も二条天皇も側近を失い、政治的権力が衰えてしまいます。
双方が対立している場合ではなくなりました。

全盛期から後白河法皇との確執

平清盛は平治の乱の後、後白河上皇と二条天皇との双方に仕える形を取り、政治の安定を図ります。

上皇と天皇との対立は続き、二条天皇は平家への依存を深めましたが、7月に崩御。
後継者の六条天皇は幼少でした。そこで近衛基実が摂政として政治を主導し、清盛は大納言に昇進し基実を補佐します。この後、清盛は昇進を続け武士として初めて太政大臣にまで上り詰めました。

また、後白河上皇と清盛は当初の予定を早めて、六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)に譲位させることで体制の安定を図ります。
即位した高倉天皇には清盛の娘・徳子が入内し、言仁親王(後の安徳天皇)が生まれました。この時代までは上皇と清盛との関係は友好的に推移しています。

また、平清盛が栄達し、政治的権力を握るにつれ、平家一門も隆盛を極めます。
一門の官位は引き揚げられ、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にしました。平氏の一門であった平時忠は、平氏の栄華を讃えて「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめます。

ところが平氏の隆盛が増すと、後白河法皇(上皇が出家をすると法皇になります)をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、清盛と対立を深めていきます。

治承元年(1177年)6月には京都の東山鹿ケ谷にあった静賢法印(信西の子)の山荘で後白河法皇の近臣が平氏を除く陰謀を行います(鹿ヶ谷の陰謀)。この謀議は、密告され参加していた者は処分されました。

治承3年(1179年)、平清盛の娘や息子が亡くなると、平家の繁栄に不快感を持っていた後白河法皇は亡くなった清盛の娘や息子の荘園を無断で没収します。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行しました。

反平氏の貴族や上皇近臣を解任し、代わりに親平氏の貴族を任官します。ここまで強硬な手段に出ると思っていなかった後白河法皇は許しを請いますが、鳥羽殿に幽閉し院政を停止させました。(治承三年の政変)

翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇が言仁親王(安徳天皇)に譲位します。安徳天皇の母は清盛の娘・徳子。平家の傀儡政権であることは誰の目にも明らかでした。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになります。

平氏に対する不満

平氏が京において権勢を振るうようになると、次第に各地で反発が起こります。
後白河法皇の第3皇子であった以仁王は、平家により不遇な扱いを受けていたため、麾下の兵や同調者と反乱を企てます。

この反乱は未然に発覚し、以仁王とその麾下の将は討ち取られます。

しかしこの同調者には、大和(現在の奈良県)の興福寺や近江(現在の滋賀県)の園城寺(三井寺)、親平氏であった延暦寺まで含まれていました。

京の都は平家に反感を持つ有力寺院に囲まれています。そこで平清盛は京を放棄し、平氏の拠点である大和田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸市和田岬付近)に遷都を計画し実行しました。

しかし以仁王の檄文が全国各地に渡り、伊豆に流されていた源頼朝や信州の木曽義仲、武田家を棟梁とする甲斐源氏が蜂起。清盛は平維盛を大将として鎮圧軍を派遣しましたが、富士川の戦いで交戦せずに撤退してしまいます。

この敗戦を知り、園城寺(三井寺)や興福寺が不穏な動きを見せると、近江源氏が蜂起し、九州でも反乱が起きたため平安京に遷都します。都を移すと同時に園城寺や興福寺、東大寺などを焼き払ったため、近畿周辺の反平家の機運も一旦下がりましたが、同時に清盛は「仏敵」の汚名を着るようになりした。

平清盛の晩年

まだ平清盛が後白河法皇と蜜月関係にあった仁安3年(1168)、清盛は病にかかり出家。

病の原因は「寸白(すばく)」(寄生虫のこと)で條虫(さなだむし)に憑かれたようでした。病にかかった事で出家し、病の回復以後、日宋貿易や厳島神社の整備に情熱を注ぎます。

以仁王の反乱計画が鎮圧された治承5年(1181)、清盛は謎の熱病に罹って倒れてしまいます。
死期を悟った清盛は、死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう後白河法皇に奏上しましたが、返答はありませんでした。

その法皇の態度に恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日、鴨川東岸にある平盛国の屋敷で亡くなりました。享年64。

平清盛の死後

平清盛の死後、長男の重盛、次男の基盛は既に亡くなっていました。

そこで、平氏の棟梁は三男の宗盛が継ぎます。ところが相次ぐ反乱が全国で起こり宗盛は対処できません。力を押さえられていた都の朝廷も後白河法皇を中心に盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていきました。寿永2年(1183)、平氏は源義仲と倶利伽羅峠で戦いますが敗北し都を蜂起します。都へ入った源義仲は都のなかで粗暴な振る舞いが多く人々から支持を得られませんでした。そこで源頼朝に討たれます。

そして元暦2年(1185年)、頼朝は壇ノ浦で平家と戦い、破ります。ここに平氏は滅亡しました。
ここから、武士の棟梁たる征夷大将軍に就いた源頼朝によって、本格的な武士の統治が始まります。

逸話

『源平盛衰記』において平清盛は古い因習や迷信にとらわれない人物として書かれています。僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然として扱い、また経が島においてが人柱を行っていたのを清盛は廃止した、という伝説があります。

しかし、平清盛は都の周辺で影響力を強め朝廷の政治にも介入し始めた仏教勢力の力を抑えました。

ところが、強引な手法で寺院の影響力を排除したことが仏教の教えや仏を軽視する行いと当時の人に映ったため、人々は清盛を悪く言います。『平家物語』では清盛は成り上がりの傲慢な性格の持ち主だとされ、その話のまま語り継がれてきました。

しかし現在では、実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものであったとも言われています。

まとめ

以上、平清盛について紹介してきました。

奢った人物と温厚な人物、両極端な評価が残っていますがそれは見る者の立場によって変わるものです。
歴史は勝者の都合の良いように編集されてきたことを思えば、決して奢った人物とは言えないのかもしれませんね。