大山俊輔
先日、根本博について紹介したところ、
「こんなすごい人がいたのか・・・」
「今、うろたえるのがバカらしくなる」
といった声を知り合いや経営者仲間からコメントいただきました。
張家口の根本博 – 本当に大事なものを守るためには時に反逆者になる覚悟が必要であることを体現した男
さて、張家口における根本博の活躍ですがこのお話には続きがあります。
実は、この話には私の母方の祖父母の話が重なるのです。
私の祖母は日本統治下の台湾生まれ。祖父は朝鮮半島の生まれです(どちらも日本人です)。そして、子供の頃台湾旅行に行った際には幼少期のお友達の台湾人の方が観光ガイドをしてくださってとても楽しい旅であった記憶があります。また、祖父は軍人として支那派遣軍の一員として戦後無事復員しサラリーマンになりました。
ですが、祖父は私が子供の頃から、
「蒋介石には恩義がある」
という言葉を繰り返し聞かされました。
蒋介石という人物も見る人によりまったく評価の分かれる人です。ですが、私の祖父にとっては少なくとも恩人と思わせる原体験があったのです。
実は今回続きを紹介する根本博はこの「恩義」のため再び立ち上がります。
次の舞台は中国大陸ではなく、台湾に移ります。
今回はそのお話についてご紹介します。
目次
北京に降り立つ根本博 – 戦後処理と蒋介石
昭和20年(1945年)8月。
張家口の奇跡を経て根本は2500名の部下と4万名の居留民を見事無事帰国する目処を立てました。
北京に降り立った根本にはもう一つ大きな仕事が残っていました。
それは日本の支那派遣軍の降伏手続きです。
降伏文書に調印する根本博
この時の様子は映像にも残っています。
この写真で降伏文書に調印をしているのが根本です。
支那派遣軍の復員は100万人以上。うち、根本が管轄する北支那方面軍(主に華北に駐留していた方面軍)の総員は35万人。
復員作業は昭和20年(1945年)11月からはじまり翌年昭和21年7月までにほぼ完了しています。10年以上はかかると言われた復員業務がこれほどスムーズに進んだのは、根本と敵方の総大将でもある蒋介石の固い人間関係のおかげだったのです。
蒋介石との再会
昭和20年12月に根本はある人物と会談を行っています。
時の中華民国の総統であり敵国の総大将であった蒋介石です。
実は根本が蒋介石と会うのはこのときが初めてではありません。
そもそも、蒋介石は日本の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校)を卒業した知日派。一方、根本自身も傅作義など、国民党の中に多くの知己がいました。(こうした経緯から、根本は日本軍の中では親中派だとか揶揄されることもあったそうです)
根本は自身の回顧録の中でこのように述べています。
当時日本には多くの大アジア主義者がいました。
曰く、「東アジアの盟主たる日中両国が手を取り合って欧米列強の侵略からアジアを守るべし」と。実際、清朝滅亡のきっかけともなった辛亥革命には多くの日本人が参加するなど、当時の日本人の中にこうした日中友好論を持つ人は多くいたのです。
この理念に根本と蒋介石は相通じるものを当時から感じ取っていたのでしょう。しかし、残念ながら日中両国は昭和12年(1937年)より戦争に突入。両者は敵味方として別れての戦う関係になったのです。
両雄の北京での再会
このように、蒋介石は根本に伝えたと言われています。
こう言われて根本は男泣きをします。
しかし、今や自分の立場は北支那方面軍の司令官、つまり、総責任者です。
(根本がこの立場になったのは昭和45年8月19日、つまり戦後です。根本は戦後処理をするために就任しています。)
この言葉に対して蒋介石はこのように言葉を返します。
老子の有名な言葉で「古い恨みを根にもたず、かえって相手に恩恵を施す」という意味をもちます。続いて、蒋介石はこのように伝えます。
当時、中国大陸では急速に力をつけていた毛沢東率いる共産党の勢力が拡大して不穏な空気を漂わせていました。もちろんこの蒋介石の言葉には、速やかに支那派遣軍を日本に帰国してもらうことで自身は共産党との戦いに注力したいという政治的背景もあったことでしょう。この蒋介石の言葉に根本はこのように返します。
こうして、根本は蒋介石の元を辞します。
この恩がその後、蒋介石自身を救うとはこの時には蒋介石自身も予期していなかったことでしょう。
私の祖父も徐州に赴任していたと聞いてますが、復員する際には天津から船に乗ったような話をしていたことを記憶しています。きっとその最後の仕上げをしてたことが根本だったことも知っていたのかもしれません。
こうして、すべての北支派遣軍35万の将兵と在留邦人が無事に復員したことを確認すると根本は最後の船で日本に帰国することになります。時は昭和21年(1946年)8月。実に敗戦、そして、あの張家口の奇跡から1年が経過していました。
張家口の根本博 – 本当に大事なものを守るためには時に反逆者になる覚悟が必要であることを体現した男なお、根本が北京を発つ時には、蒋介石は特別列車が仕立てるとともに、最高司令官の礼をもって見送られたそうです。
日露戦争の旅順開城における水師営の会見において、乃木希典は敵将ステッセルに帯刀を許した上で握手を求めました。かつては、敵味方の関係であれど互いに最大の敬意を払ったことが伺える素敵なシーンですね。
水師営の会見:中段左から2人目が乃木将軍、その右隣りがステッセル
台湾への密航
帰国した根本の元には中国大陸での風雲急を告げるニュースが飛び交ってきます。
国共内戦(1946年6月〜1949年12月)です。
既に根本が中国大陸で降伏手続き、兵士や在留邦人の復員手続きをしているときから、国府軍(蒋介石軍)と毛沢東率いる共産党軍は中国大陸での覇権をめぐって小競り合いをはじめていました。当初、国民党はアメリカの支援もあり兵力も430万人(正規軍200万人)で共産党軍420万人(120万人)と比べても優位に戦いを進めていました。
しかし、中国共産党軍がソ連の侵攻を受けて日本が撤退した後の満州を支配地域に加えると形成は逆転します。かつて、日本はこの満州の地に日本の国家予算以上の膨大な金額を投じて都市化、工業化をすすめていました。ソ連からの支援に加えて、この満州の膨大な生産力と残留日本人を兵員や看護兵として投入した共産党軍は一気に形勢を有利なものとします。
1948年の遼瀋戦役、淮海戦役、東北野戦軍などにより中国大陸北部の主要都市は共産党軍の手に落ちます。この時に活躍したのが、林彪や鄧小平など後の中華人民共和国のリーダーになる層です。
翌1949年にはアメリカ国務省は上海防衛に敗れた国民党政府の敗北を確信し、軍事援助打ち切りを発表。蒋介石は大ピンチに陥ります。
台湾からの青年と明石元二郎の息子
日本の敗北に伴い台湾は蒋介石率いる中華民国領となっていました。
台湾に降り立つ蒋介石と宋美齢
国共内戦は、徐々に共産党軍に有利に展開します。蒋介石は中国大陸の事実上の放棄と、台湾への撤退を決定します。こうして、残存する中華民国国軍の兵士、国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾への運び出しが行われました(中国美術展示としては最大級を誇る故宮博物院が台北にあるのはそのためです)。
一方、根本博は何をしていたのでしょう?根本は復員後、東京の鶴川村(現在の町田市)の自宅で日々やるせない気持ちでいました。
世界中が国民党政府を見放して、恩人たる蒋介石がピンチに陥っている。自分だけでも、なにかできないものか。少ない財産を売り払って蒋介石のもとに馳せ参じる準備をしている時、とある青年が現れます。
男の名前は李鉎源。
李は東亜修好会のメンバーと自分の立場を明かします。
東亜修好会とは、明治日本が産んだ世界的スパイでありそして日露戦争の影の立役者でもある明石元二郎の息子である明石元長が作ったアジアの青年たちを支援する組織です。明石元二郎は日露戦争後は、台湾総督として活躍をしています。
明石元二郎〜スパイから総督へ、この人の人生も実に魅力的なストーリーがたくさんあります
「父が丹精込めて育てた台湾だけは守らなければならない」
父元二郎の墓は台湾にあります。生の前半をスパイとして生きた明石元二郎は、その後半生は民生家であり台湾総督として、台湾の発展に心血を注ぎました。今も台湾で明石の評価が高いのはそれほどまで、台湾を愛していたからでしょう。明石は台湾生まれの李を根本のもとに派遣します。
李鉎源は、こう根本に語りかけます。
「閣下、私は傅作義将軍の依頼によってまかり越しました」
傅作義の名前を聞いて根本は驚きます。傅作義は根本がかつて交流が深かった国民党の要人です。根本は前回の話の舞台となる、張家口の戦いの際、万が一自分に何かがあったときには、と自身の遺書を傅作義宛にしたためていた。敵味方別れていたものの、お互いにその人格を認めあった仲です。
この言葉に根本の迷いはなくなります。
釣りに行ってくる
こうして、根本は渡台を決意します。
昭和24年(1949年)5月8日、根本は家族にこう伝えて外出します。
「釣りに行ってくる」
もちろん、単なる釣りではありません(笑)。
実にこれから3年間に及ぶ台湾での根本の戦いが始まったのです。
この根本の渡台に同行したのは数名。
かつての部下であった軍人と、そして、上海時代からの盟友である吉村是二を通訳として船は宮崎の延岡から出向します。当時の日本はGHQの統治下。完全に密航です(笑)。ちなみに、根本一行は資金繰りに非常に苦労したようで、明石はあらゆるネットワークを駆使してスポンサー探しをしました。6月26日、根本一行の船は延岡港を出向します。
出港を見送った後、明石は心労がキッカケで急死します。43年の短い命でした。
荒波の東シナ海を密航する
捷信號 ー 根本一行が乗った船の名前です。お世辞にも快適な場を提供する船とは言えないものでした。音をポンポン立てながら煙を吐いて前に進む原始的な原理を推進力とした船で、東シナ海の荒波を果たしてこんなポンコツ船で渡航できるのか。そんな不安が一行にはあったことでしょう。
私が子供の頃はこうしたポンポン船がまだ走ってました。根本が乗った船はもっと小型で貧弱だったことでしょう
ですが、根本はじめ東亜修好会のメンバーは台湾救援という使命がありました。
船は浸水し根本はじめ乗組員全員で水を排水しながら前進します。
時には逮捕される危険を承知で、米軍統治下の沖縄諸島に立ち寄り物資を補給します。
ひとつでも失敗があれば、船は沈没するか米軍に逮捕されてしまう。
そんな危険を伴った密航劇でした。
更には食料も尽き、最後は自分たちで釣りをして調達した様子が日記にも残されています。エンジンは何度と故障し、果たして台湾にたどり着けるのか。一行が諦めかけたその時・・・。
現代の基隆山。海からこの山が見えた時の一行の安堵の表情が想像できます
一行の正面に山が見えました。基隆山です。
台湾最北の「基隆」の港に一行はついに到着したのです。
延岡出港から実に14日の日々が経過していました。
蒋介石との再会
まさかの逮捕勾留
しかし、根本一行には更に困難が待ち受けていました。逮捕です。
それはやむを得ないことかもしれません。
突然、ボロボロの服の中年のおじさんと青年たちが突然現れたら怪しさ満載です(笑)。
根本一行は基隆港近くの監獄に入れられてしまいます。
根本は牢屋の中で看守たちにこう叫びます。
「私は恩義ある蒋介石総統のため、共産党軍との戦いのためはるばる日本からやってきたのだ」
怪しい日本人一行の噂が国府軍の幹部に漏れ伝わったのは2週間後のこと。
「あの人ならやりかねない」
根本のことを知る国府軍幹部は基隆に向かいます。そして、「根本先生!」と叫び再会を果たします。
蒋介石との対談
こうして、根本一行は命拾いをします。
ゲームでしたら何度ゲームオーバーになってもおかしくないような話ですよね(笑)。
そして、ついに根本は蒋介石との再会を台湾で果たします。昭和20年12月の北京での会談から実に4年の月日が経過しての台湾での再会です。
蒋介石、そして、部下の湯恩伯将軍などといった諸将にとっては敗戦に次ぐ敗戦。中国大陸は南端を除きほぼ放棄した状態。アメリカにも見放され、国民党政府に肩入れする存在などこの世界にいないと思っていた矢先に、かつての敵軍の総司令官の一人が危険を賭して東シナ海を密航して今、自分の目の前に現れたのです。
かつて敵であったことなど忘れてしまうような出来事でした。
蒋介石は根本にこう尋ねます。
根本は迷わずこう切り返します。
根本”顧問閣下”
湯恩伯 – 晩年は不遇で最後は日本で病没されます
蒋介石は部下の湯恩伯に福建省防備を命じます。福建は台湾海峡を挟んで、中国と台湾をつなぐ拠点で国民党政府が確保している数少ない場所でした。
蒋介石は根本にこう言います。
こうして、根本は湯恩伯の軍事アドバイザーに就任します。
厳密には、湯が蒋介石より友である根本博を借り受けたという形で。
また、根本一行には中国名を与えられました。
根本博は「林保源」、通訳の吉村是二は「林良材」など。湯恩伯は各部隊に根本を紹介する際には、すべてこの中国名で行っています。ただ、根本個人に語りかける時は日本語で「顧問閣下」と呼んでいたそうです。(湯は明治大学、陸軍士官学校に留学し日本語がペラペラでした)
こうして、湯と根本はともに厦門(アモイ)の街に向かいます。
金門島の奇跡
かつての敵の総大将が単身密航をしてまで自分の目の前に現れたことに蒋介石は感慨深く思ったことでしょう。しかし、歴史の大きなうねりは明らかに毛沢東に有利に働いている状況です。
この大きなうねりを根本が加わっただけで、何を変えることができのだろうか。
きっと蒋介石もそうは思っていなかったことでしょう。でも、今は1%の可能性でもあれば賭けるしかない。あの日本人は約束を守って恩義を果たすために、命を賭して密航してまで自分の目の前に現れたのです。
蒋介石はこの1%の可能性を信じるしかなかったことでしょう。
厦門(アモイ)の戦略的放棄
福建省、厦門と金門島
さて、ここで地理関係を見てみましょう。
福建省は国民党軍が最後の最後まで確保していた大陸の拠点です。
その前の三大会戦により国府軍は壊滅、続く湯自ら指揮した南京、上海防衛にも失敗し福建の厦門に防衛ラインを移したばかりでした。
しかし、厦門の街をぐるっと確認した根本は湯恩伯にこう伝えます。
「この街は防衛するに向いていない。金門島まで撤退すべきだ。」
厦門は人口20万人の大都市であり、大陸側から攻めるに易く防衛するには非常に難しい街です。また、住民の食料確保も難しい中、余勢を駆って雪崩を打ってやってくる共産党軍を防ぐことは非常に難しい。常に住民への被害を気遣った根本にとって、市街地での戦いは避けたいところでした。一報で、隣の金門島は漁村で人口も少なく住民に迷惑をかけにくい。
こうして、厦門の放棄と金門島での防衛ライン構築というグランドプランが出来上がります。
金門島を防衛ラインに
根本の作戦はシンプルです。
まずは、厦門に殺到する共産党軍に一泡吹かせる。そして、その後金門島に戦略的撤退する。
こうすれば、勝ちの勢いにまかせて金門島に共産党軍は殺到します。
そして、一定数の共産党軍を上陸させた後、敵軍の船を焼き払い敵軍上陸部隊を包囲殲滅する。当時の共産党軍は海軍と言えるものはなく、ジャンク船のような民間の船を徴用し兵員を輸送することしかできません。つまり、重火器のない敵の歩兵を戦車部隊はじめ重火器で全滅させることで、共産党軍の戦意をもぎ取る、というのが作戦でした。
この戦略的撤退とその後の包囲殲滅というシナリオはハンニバルのカンナエの戦いやケマル・アタテュルクの希土戦争におけるエスキシェヒール放棄〜サカリヤ河畔の戦いと重ね合わせるものを感じます。根本は戦史に明るい人物でしたので、古今東西の事例を作戦立案の際に参照していたことでしょう。
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古寧頭戦役の奇跡
根本と湯恩伯のシナリオ通り厦門を攻略した共産党軍は勢いをそのままに金門島に殺到します。
しかし、この金門島でついに国府軍は共産党軍を撃破します。
その最大の戦いの舞台となったのは古寧頭村の名を取り、古寧頭戦役と言われます。
根本はこの戦いの勝利に貢献するだけでなく、村人が犠牲にならぬよう綿密に作戦を立てて民衆への被害を最小限に抑えました。こうした経緯から、地元の人々の間では「戦神」というニックネームを与えられたとも言われています。
このように敗北続きであった国府軍はついに共産党軍の侵攻を止めることに成功します。
金門島は今も台湾領であり、なによりも台湾の独立が担保されます。終戦の時の蒋介石への恩返しがしたい。
この恩返しが今に続く東アジアの国境を確定させることになったのです。
忘れ去られた歴史と2つの花瓶
10月30日、湯恩伯は17名の随行員とともに台北に降り立ちます。まさに凱旋帰国です。この17名の中に林保源、すなわち根本博がいたことに気づく人はごく一部だけでした。
というのも、蒋介石にとっても台湾は旧日本領から接収したばかりの領土です。
さらに、共産党軍に敗北を重ねている時に、日本人の助けを受けていたとは表立ってはいえないのはやむを得ないことだったでしょう。
しかし、根本は別に手柄が欲しくて命がけで密航したわけではありません。
恩義ある友を助けに行ったまでのことなのです。
根本の帰国
羽田空港に降り立つ根本博
昭和27年(1952年)6月25日、羽田空港に台湾からの飛行機が着陸しました。
その場には多くの報道陣が待ち構えています。
そう。既に日本国内では根本や一部の旧帝国陸海軍OBが台湾に密かに渡って蒋介石を支援していることは公然の事実となっていました。国会でも吉田茂首相が野党に問い詰められています(笑)。また、占領国であるアメリカも蒋介石政権に絶縁をしたものの、台湾が共産化することは望んでおらずこうした旧日本軍OBの活動を黙認していたのです。(根本以外にも白団と呼ばれる人々が台湾に渡り、軍事教練に関わっています)
飛行機から降り立った男に取材陣は質問攻勢をしかけます。
釣り竿を担いだ男はこう答えます。
しかしそんな曖昧な答えに納得しない記者はさらに突っ込んだ質問をします。
こう言われて、根本はこう答えたそうです。
この答えの中に実際に根本がやったことが散りばめられていますよね。
しかし、根本は別に自分がヒーローになりたくて行ったわけではありません。困った友に恩がえしをしにいったにすぎないのです。
友情の証としての花瓶
さて、根本が帰国に際して蒋介石は一つのプレゼントを送っています。
それは、2つで1セットとなる花瓶です。
蒋介石は終戦間際に陶磁器で有名な景徳鎮の職人に命じて3セットの花瓶をつくらせました。
1つめのセットは同じ連合国で戦勝国となったイギリスのエリザベス女王のご成婚のお祝いに。そして、2つめのセットは日本のご皇室に。
最後となる3つめのセットは1対を自身の執務室にかざりこの上なく大切にしたそうです。そして、もう1対を根本にプレゼントしています。
蒋介石が根本博に送った花瓶(右)
その花瓶は2つで意味をなすように作られています。
互いに見守る男たち。左の男性が恐らく蒋介石自身を、そして、片方の男(右側)は釣り竿を持つ男で、根本のことでしょう。粋な計らいですね。
この花瓶を渡す際に蒋介石はこう根本に伝えたそうです。
この花瓶は根本の長女、富田のりさんが保管していましたが、ジャーナリスト門田隆将さんの協力を得て、蒋介石が終生大事にしたもう1対の眠る中正紀念堂に永久貸与という形で帰国することになったそうです。花瓶も再会できてよかったですね(笑)
よみがえる歴史
根本の活躍は中華民国の軍事史の中では忘れ去られた存在となっていました。
かつての敵国の人間が、恩返しに馳せ参じて自らを救ってくれた、などということは蒋介石自身表立っては言いにくかったことは容易に想像ができます。
一方で根本自身もこのことについて多くは語りませんでした。
根本にとっては蒋介石の「ありがとう」の言葉で十分だったのです。
ところが、ここで大きな変化が日台両国で起きます。
前述のジャーナリストの門田隆将さんの活躍もあり台湾でもここ10年で根本についての知名度が急遽高まり、「古寧頭戦役60周年記念式典」において、当時の馬英九総統が明石元長の息子「明石元紹」と吉村是二の息子である「吉村勝行」を式典に招待するという出来事がありました。この場で、公式に馬英九総統から両者に感謝の意を伝えられています。
そして、そのことをキッカケに中華民国政府によって公式に根本たちの存在を一転して認めるとともに、国防部常務次長の黄奕炳中将によって「当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉が述べられるに至りました。
公式記録に登場した根本博
こうして2010年代に入って根本博の名前は日本、台湾で再び歴史の表舞台に舞い戻ったのです。
まとめ〜本当に血の通った人生を生きるために・・・・
いかがでしたでしょう?
私にとって根本博という方の存在は20年以上前から名前は知っていました。また、祖父の蒋介石への感謝の話が常に頭の片隅に残っていたことも、根本に興味を持ち続けた理由だったのでしょう。そして、金門島の戦いや蒋介石との仲を知るキッカケとなったのは、近年の研究や根本や吉村の遺族が高齢化するに従い、生きているうちに、、、と当時の状況を語り始めたことがキッカケであります。
ですが、きっと根本も蒋介石もそんなことはどうでも良かったのでしょう。
友が困ってるから助けたまで。
この一言で全ては言い尽くされます。
ここで登場するのが、一番最初に紹介した写真です。
根本博と蒋介石
昭和35年頃(戦いから10年近く経過して)再び根本は蒋介石に招かれて台湾を訪問しています。その時の写真なんです。2人の後ろにいるのは通訳の吉村でしょうか。実に3人共立場は違えど、いい笑顔をしていますね(笑)。
根本の生涯を見ていると、人とは何のために生まれそして死んでいくのか。
そんなことを改めて考えさせられます。
私達はいつかどこかのタイミングで現実という名の魔物に頭を押さえつけられてしまいます。周囲の目を気にして、他人からの評価を恐れて、そして、もっと人として大事なことを気づかないうちに忘れ去って大人になっていきます。
中には世渡り上手だけが取り柄でこうした大事なものを平気で捨てさってしまい、そのことすら忘れてしまえる人もいます。
その一方で、今回紹介した根本のように終生自分の中に根幹規範ともいえるプリンシパルを持ち続ける人もいます。時にはやむをえぬ戦争に従軍もしましたが、何よりも民を守り、そして恩を忘れないという自身のプリンシパルに忠実に行動し続けました。
このプリンシパルがあるからこそ、張家口では軍命と国際法に背いてまで兵と民を救いました。そして、このプリンシパルがあったからこそ、蒋介石に恩返しをすべく台湾まで密航したのです。
どちらも法的には違法行為ですが、それ以上に大事な価値観を自分の中で終生重視したのでしょう。
我瀬島龍三ならずして、現代の根本博たらん。
本稿を書いているうちに、そんな風に心をあらためた瞬間でした。
今回もありがとうございます!
大山俊輔