大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

大坂の陣について夏の陣・冬の陣まで徹底解説!

大坂の陣について夏の陣・冬の陣まで徹底解説!

大阪の陣は、江戸時代に入るまでの最後の大きな戦いと言っても過言ではありません。

この戦いにより、200年もの平和な時代が訪れるようになります。

フリスクン

 小学生から日本の歴史が大好き。中学、高校では、日本史につまずいている友人に教えると、分かりやすいと友人間で評判に。実はこう見えて現在、大学生。大学では、歴史に基づいたビジネスを考えています。

私は歴史好きで、この戦いについて、豊臣側がどのような歴史的背景を持っていたのかまた、徳川側がどうだったのかなど、様々な観点で調べました。今回は、大阪の陣の2つの戦い、夏の陣・冬の陣について、その後の様子までを徹底解説します!

大阪冬の陣を徹底解説!

1614年に冬の陣、翌年の1615年に、夏の陣が始まります。

最初に冬の陣について解説していきます。

戦いの概要

戦いの場所は?

戦いの場所は、今でも有名な、大阪城です。この大阪城周辺での出来事であると言われています。

豊臣本家が、本拠地としておいていた場所ですね。

戦いの主な人物

徳川家康:江戸幕府を築いたことで有名な徳川家康。関ヶ原の合戦で勝利をし、その時点ですでに天下を獲ったに等しい状態でした。さらにこのときに征夷大将軍に任命されます。

豊臣秀頼:豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家の跡を継いだ大名です。大坂の陣では、豊臣家の代表として言われています。

戦いの背景

家康は、1600年に関ヶ原の戦いに勝利。そこから天下を獲るため、最後の動きに出ようとします。

しかし、まだ豊臣家への忠誠心がとても強い大名も多く残っていました。そこで、豊臣家を滅ぼせば自分は天下を獲れると思っていた家康は、壊滅さっせるべく、時を待っていました。

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」とはよく言ったもので、家康はその14年後の1614年。「方広寺鐘銘事件」と言われるものを引き起こします。

方広寺鐘銘事件とは、方広寺大仏の釣り鐘に刻まれた、「国家安康・君臣豊楽」という文字に対して、徳川家が物申す事件です。

徳川家がこの8文字の言葉が「家康」の2文字を分割しているように見え、「豊臣家の繁栄を願い徳川家に災いを招く呪いをかけている」と難癖をつけ始めたのです。

こんな小さなことでとは、思いますが、この事件をきっかけに、豊臣家と徳川家の間には亀裂が入り、開戦のきっかけとなります。

戦いの流れ

大阪冬の陣と言われる戦いは、5つあります。

  • 「木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)」
  • 「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」
  • 「今福の戦い(いまふくのたたかい)」
  • 「博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)」
  • 「野田・福島の戦い(のだ・ふくしまのたたかい)」

という5つの戦いがありました。

戦いごとに解説していきます。

「木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)」

「木津川口の戦い」とは、1614年11月に大阪城の交通や軍事のうえで、大切な地点である、要衝(ようしょう)を木津川口の砦で行われた戦いです。

徳川軍の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)は、徳川家康から浅野長晟(あさのながあきら)らと共に木津川口を攻略するように命じられていましたが、抜け駆けして攻撃を行いました。

その結果、砦は陥落しましたが、遅れた浅野の軍勢からは川のせいで多数の溺死者が出てしまいました。

「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」

「鴫野の戦い」は、大阪城東北の大和川南岸の鴫野村で行われた戦いです。

豊臣軍は鴫野村に柵で守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じます。

そこで攻撃し柵を占拠します。さらに反撃してきた豊臣軍を徳川軍で撃退し勝利を収めます。

「今福の戦い(いまふくのたたかい)」

「今福の戦い」とは、大阪城東北の大和川北岸の今福村で行われた戦いです。

豊臣軍は今福村にも柵などをはり、守備していましたが、徳川家康はこの場所に付け城を築くために柵の奪取を命じました。

そこで鴫野の戦いと同じように、攻撃を行って柵を占拠しましたが、救援の豊臣軍である、後藤基次(ごとうもとつぐ)に反撃を受けたため、対岸にいた上杉景勝などが銃撃によって豊臣軍を撃退します。

「博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)」

「博労淵の戦い」とは、博労淵の砦で行われた戦いです。

博労淵の砦を攻撃するために徳川家康は竹などで作られた大きな束である、仕寄を築かせましたが、それよりも先に攻略しようと蜂須賀至鎮は萩の刈り取りを口実に攻略を思案します。

しかし家康が別の大名へ萩の刈り取りを命じたため、蜂須賀は夜中の内に木津川口に仕寄を構築し、夜明けの攻撃と共に砦を陥落させました。

「野田・福島の戦い(のだ・ふくしまのたたかい)」

「野田・福島の戦い」とは、現在の大阪府北中部にあたる、摂津国の野田・福島地区で行われた戦いです。

豊臣軍は天満川と木津川の合流点に水軍を停泊させ、船倉を築いて守備していました。そこで徳川軍との小競り合いが発生していましたが、徳川軍が急襲したため、怖気づいた守備兵は逃げていきました。

その後、徳川軍は、上福島の砦までを陣取りました。

ここまでが、大阪冬の陣だと言われています。

ここから徐々に大阪城を陥落させるために徳川軍が動きます。

大阪夏の陣について徹底解説!

大阪冬の陣で、追い詰められた豊臣本家。この翌年の1615年、大阪夏の陣が始まります。

戦いの流れ

大阪城をまっさらな状態、つまり裸城にするという名目で、堀の埋め立て工事が始まります。これで大阪城が陥落し、徳川の天下になるかと思いきや、豊臣方がその堀をまた掘り返しているという情報が徳川軍に入ります。

再度戦いを始める徳川軍。大阪夏の陣は、主に4つの戦いに分けられると言われています。

「郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)」

「郡山城の戦い」とは、豊臣軍が徳川軍の守る郡山城を落とした戦いです。

徳川家康の命を受けて郡山城に入城していた大名に、豊臣家は「こちらに力を貸して欲しい」と求めました。

しかし先に入っていた大名がこれを断ったため、豊臣方は郡山城へ進軍し、兵力を見誤った徳川軍が撤収したことで郡山城は落とされました。

「樫井の戦い(かしいのたたかい)」

「樫井の戦い」とは、豊臣軍が浅野長晟(あさのながあきら)を攻めた戦いです。

豊臣軍は和歌山城の浅野長晟への攻撃のため、出陣します。

樫井での戦いは激戦となり、豊臣軍は扇動していた一揆勢ともに攻略を試みますが、先鋒を争った大名たちが討死したため大坂城に引き返しました。

「道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)」

「道明寺の戦い」とは、大阪城へ向かう幕府軍を豊臣勢が迎撃した戦いです。

しかし寄せ集めだった豊臣軍は連携が取れず、敗走し、多くの大名が戦死します。

また、真田信繁(さなだのぶしげ)や毛利勝永(もうりかつなが)が遅れて到着し、真田隊は伊達隊の進軍を押し止めましたが、豊臣は敗戦したため、残兵を回収して後退しました。

「八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい)」

「八尾・若江の戦い」とは、大阪城へ向かう徳川本軍を豊臣勢が迎撃した戦いです。

道明寺の戦いと同日に行われた八尾・若江の戦いでは、豊臣軍が徳川本軍の藤堂高虎隊に奇襲をしましたが、追撃を受け壊滅しました。また、木村重成(きむらしげなり)も徳川本軍の井伊直孝隊と交戦の末、戦死しました。

以上の4つの戦いで大阪城は崩落し、豊臣家は滅亡します。

まとめ

大阪の陣は、冬・夏併せて2年ほどの戦いでしたが、ここから、大きく時代は変わります。

家康、そして家康の息子である秀忠によって、全国の大名を掌握します。江戸幕府を築き、一国一城令や、武家諸法度など、江戸時代の秩序を確立し、平和な世の中を200年もの間続けることになります。

戦国時代最後の戦いと言われた「大坂の陣」ですが、まさか、戦いのきっかけが、「寺の鐘銘」とは驚きです。

家康は、14年もの間、よく待ったなと感心しています。14年待って、寺に目をつけるとは、豊臣家もさぞ驚いたことでしょう。

戦いは、いろいろな思いが錯綜し、出来ていくものです。ストーリーとして楽しみたい方は、歴史小説や、漫画などを御覧ください。解説を踏まえて読むと、より楽しめますよ!

フリスクン&大山俊輔