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歴史オタクが三国志の孫権について初心者にわかりやすく解説!

歴史オタクが三国志の孫権について初心者にわかりやすく解説!

歴史にはあまり興味の無い方でも「三国志」の名前は聞いた事があるのではないでしょうか。漫画やアプリや映画、小説でも多くの三国志作品がありますよね。

アプリで遊んでみたけれど、良く解らなかった。とか、登場人物が多くで付いて行けない、そもそも名前の漢字が読めん!という三国志初心者の方もいるでしょう。

カヌタ

NHK人形劇三国志にあこがれたことがきっかけ。人形劇では、主人公が劉備で曹操は悪役。初心者にもわかりやすい展開でしたが、それ以来多くの三国志作品に触れ、歴史オタクになっていきました。ラジオパーソナリティもしてます。

この記事では、三国志初心者のために、三国志の英雄の一人、孫権(そんけん)についてわかりやすく解説していきます。三国志といえば劉備(りゅうび)や曹操(そうそう)を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし魏(ぎ)や蜀(しょく)と並び、孫権が呉(ご)の国を作らなければ3つの国の歴史、すなわち「三国志」にならないのです。

サイト管理人:大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、歴史が三度の飯より大好きでそのきっかけはコーエーの三国志のゲームと横山光輝の漫画版三国志でした。ちなみに高校時代の自分のニックネームは曹丞相(自称)(笑)。
MEMO
なお、三国志とはどんな時代なの?ということに興味がある人は、「三国志のあらすじを徹底解説! | これから三国志を学びたい人向け地図、登場人物、三国時代についてわかりやすくまとめました!」の記事で詳しく三国時代について解説しています。
三国志のあらすじを徹底解説! | これから三国志を学びたい人向け地図、登場人物、三国時代についてわかりやすくまとめました! 三国志のあらすじを徹底解説! | これから三国志を学びたい人向け地図、登場人物、三国時代についてわかりやすくまとめました!

三国時代、呉の国とは?

三国志領土

三国志の時代は西暦180年~280年頃になります。ヨーロッパではローマ帝国時代、日本はまだ弥生時代ですね。

この頃全中華を統一していた後漢王朝が衰退し、220年についに後漢王朝が滅びます。220年魏の曹不(曹操の息子)・221年に蜀の劉備(漢の皇帝として即位)・そして229年に呉の国で孫権が呉の皇帝を名乗り、三国が並び立ちました。

この3つの国を西晋時代の陳寿(ちんじゅ)という人がまとめた歴史書が「正史 三国志」です。そして明の時代に羅貫中(らかんちゅう)という人が三国志時代の俗話や私見なども入れながら、小説として書いたものが「三国志演義」です。現在世の中にある多くの三国志作品は、この三国志演義を元に作られている場合が多いですね。

劉備が主役、曹操が悪役というパターンが多いので、孫権はどうしても脇役になりがちです。そして三国志数々の戦いの中でも、有名な「赤壁の戦い」や「夷陵の戦い」も孫権にとっては防衛戦。孫権側から攻め込む、という場面は合肥侵攻などを除けばあまり無いのです。

三国志初心者にはちょっとマイナーな孫権ですが、三国志のストーリーを第三者的な目線で見るためには格好の存在だと思います。

孫権てどんな人?

孫権てどんな人?

孫権仲謀(そんけんちゅうぼう) 西暦182年生まれ。劉備が161年、曹操が155年生まれですから、三国を作った英雄の中では、一番若いですね。

若くして君主に

父の孫堅(そんけん)、兄の孫策(そんさく)の後、家督を継いだのが19歳の頃です。19歳にして一国一城どころか、その頃の中華全土で、曹操に継ぐ第二勢力の主になったのですから、相当大変な事です。

孫権の魅力

豪腕で権力を握っていた曹操。その人徳で多くの人に慕われた劉備。それでは孫権の魅力は?と言われれば、正直ぱっと思いつかない方がほとんどではないでしょうか。三国志初心者であれば、なおさらです。

私が思う孫権の魅力は、勤勉さと謙虚さ、そして決断力。孫権が父や兄から引き継いだ時には、すでに自分の領地があり、有能な家臣も揃っていました。兄の孫策も「家臣の意見を良く聞いて治めよ」と言い残しているくらい、内政も戦いでも人材は充実していたのです。その家臣たちが、家督を継いだとは言え19歳の若造である孫権の言う事を聞いて貰うには、かなりの努力が必要です。

孫権はとても勉強家で、家臣に良く相談していました。時には意見が対立し大喧嘩になる事もありましたが、すぐに自分の否を詫び「自分に至らない点があれば教えて欲しい」と家臣にも素直に教えを乞うことができる謙虚さがありました。

赤壁での果断なる意思決定

しかし、相談し多くの意見を聞きつつも、最後に決断を下すのは君主である孫権です。ここで決断を間違えれば大変な事になってしまいます。赤壁の戦いでは80万もの軍勢で攻めてくる曹操軍に対し、孫権軍10万、劉備軍3万。ほとんどの家臣が降服を進める中、孫権は戦う事を決断しました。そしてその指揮を家臣に任せ、自分は一切口を出しません。一度決めて任せたからには、口出しはせず、なにかあったら責任は自分。なかなか出来る事ではありませんよね。

皇帝に即位

西暦229年に呉の国の皇帝として即位し、魏、蜀と共に三国が並び立つのです。

余談ですが、相当酒癖が悪かったみたいですね。その事を自分でも自覚していて「自分が酔っ払った時に『打首にしろ!』と言っても、ホントにやらないでね」と事前に言っていたそうです。そんなに冷静なら飲まなきゃいいのに。と思いますが、酒宴の席は避けられないのでしょうね。

孫権に使えた名家臣紹介

孫権だけではなく、父や兄の代から多くの有能な家臣が仕えていた呉の国。ほんの一部ですが、特にも名家臣と言える人物を紹介していきますね。漫画や小説、アプリでも登場する人達ばかりなので、三国志初心者でも知っておけば、いっそう楽しめると思いますよ。

ここでは、横山光輝の『三国志』に登場する一番インパクトの濃い絵で紹介します。

周瑜(しゅうゆ)

周瑜

兄の孫策にも使えた名将。孫策に死に際「外の事(戦の事)は周瑜に聞け」と言い残したほど信頼の厚かった人です。赤壁の戦いで呉軍の指揮一切を任された将軍であり、軍師。戦力で8倍も上回る曹操軍を相手に様々な策略を用い、見事勝利に導きました。

とってもイケメンで音楽にも精通し「美周朗」(びしゅうろう)と呼ばれていました。妻の小喬 (しょうきょう)はとっても美人で、姉の大喬は孫策の妻になっています。

魯粛(ろしゅく)

魯粛

袁術(えんじゅつ)、孫策に仕え、周瑜の推薦もあり改めて孫権に仕えた重臣。軍師的な役割が多いですが、剣や弓も使いこなしていました。赤壁の戦いでは周瑜と共に数少ない主戦派で、孫権に最終的に戦う事を決断させています。また劉備軍との同盟に尽力した人でもありました。

46歳の若さで亡くなっていますが、孫権が呉の皇帝に即位した時「魯粛はこうなる事が解っていた」と言われるほど先見の明があった家臣です。

呂蒙(りょもう)

呂蒙

若い頃から猛将として知られる一方で、字も読めないほどに無学でした。しかし孫権から教養の大切さを説かれ、必死に勉強に励みます。その結果、学者にも並ぶほどの知識を身につけ、軍師の魯粛に策略を進言するまで成長しています。

数々の戦いで功績を挙げている呂蒙ですが、最大の見せ場は、劉備軍の関羽を討ち取った事ではないでしょうか。文武両面で秀でた家臣となった呂蒙は、周瑜・魯粛を継いで孫権軍を束ねる存在になりました。

陸遜(りくそん)

陸遜

21歳で孫権に仕官し、若い頃から異民族を懐柔するなど多くの功績を挙げました。また呂蒙と共に関羽を討ち取り、夷陵(いりょう)の戦いでは劉備軍にかなりの損害を与え勝利。劉備はこの大敗がきっかけで亡くなっています。

戦い方だけではなく、戦後処理も上手だったようで、彼が平定した土地では反乱が起きる事が、かなり少なかったようです。

政治的手腕もあり、最終的には呉の丞相(じょうしょう 総理大臣みたいな役職)にも付いています。

黄蓋(こうがい)

黄蓋

孫権の父、孫堅の時代から呉に仕えた猛将。一番の見せ場は、赤壁の戦いで曹操軍に偽りの投降をするふりをして、船上での火計を成功させた事でしょう。投降を信じさせるためにわざと自分の身を叩かせる罰を受けます。これが「苦肉の策」の語源にもなっているのです。

普段は一般兵士にも優しく接していたので、いざ戦いになると、兵士達は黄蓋の為に必死で戦ったそうです。何事も普段の振る舞いって大事ですよね

甘寧(かんねい)

甘寧

三国志演義では最初は海賊だったものの孫権軍に加入しています。粗暴で殺人を好むというとんでもない奴で、孫権軍きっての暴れん坊。しかし爽快な人柄と豊富な実戦経験から出る計略も巧みに操りました。元海賊だけあって水軍の扱いはお手の物で、多く戦いで功績を挙げています。

孫権とその父、孫堅 その兄孫策について

孫権を語る上で絶対に外せないのが、呉の地盤を築いた父の孫堅(そんけん)と兄の孫策(そんさく)の存在です。

孫堅

孫堅文台

父の孫堅は西暦151年生まれ、後漢王朝が滅ぶきっかけとなった「黄巾の乱」討伐に参加し、功績を上げます。これ以外にも各地での反乱鎮圧の功績が認められ、長沙(ちょうさ、当時の地名ですね)の太守となります。

後漢王朝の権力を握り、横暴を振るっていた董卓(とうたく)を倒すために結成された「反董卓連合軍」にも参加。諸侯が自分の戦力を温存したいがために積極的に戦いに参加しない中、孫堅軍は勇猛に戦いました。そして董卓軍が撤退する際に陵墓を暴き、宝を持ち去ると、暴かれた陵墓を埋めなおしています。

戦いも強く家臣からの信頼も厚い、そして礼節も忘れない孫堅でしたが、黄租(こうそ)その戦いの時、優位に立っていたにも係らず、一人でいた所を狙われ射殺されてしまいました。これからまだまだ活躍する37歳の時です。

孫策

孫策

その後をついだのが孫策。孫堅の長男ですね。偉大な父を急に失い、家督を継いだのが17歳の頃、ちなみに孫権はこの頃10歳です。孫堅亡き後、その勢力は袁術に吸収され、孫策も袁術の家臣としてのスタートでした。若い頃から頭角を現し、袁術からやっと返してもらった父の代からの部下1,000名で劉繇(りゅうよう)を攻め、見事勝利。袁術からの独立を果たしました。その後破竹の勢いで勢力広げますが、余りにも武力に頼って勢力を広げたため、恨みも買っていました。最期は父と同じく一人でいた所を刺客に襲われ、その時の負傷が元で27歳の若さで亡くなってしまいます。

江東の小覇王と呼ばれ、正に太く短い生涯だった孫策。彼の得た江東一帯が呉の国の基盤と成るのです。

まとめ

今回は三国志、呉の国を築いた孫権について、人柄や有能な家臣、父や兄からいかに受け継がれたのかを詳しくまとめてみました。

三国志では脇役のイメージが強い孫権。なぜ脇役なのか考えてみました。多くの三国志作品の中で、孫権軍から戦いを仕掛けるという場面が少ないのです。関羽を攻めた時も、孫権側からすれば、貸していた土地を返してもらっただけ。大勝した「赤壁の戦い」も「夷陵の戦い」も孫権軍から見れば防衛戦なのです。

孫権の代になってからは、孫権自らが出陣する事もなく、他国に攻め入る事が少なかったので、脇役のイメージが強くなったのではないかと思います。同時に、なぜ侵略戦を行わなかったのか?と考えれば、父や兄から受け継いだ呉の地盤を、より強固にする事に力を注いでいたのだと思います。

さらに深読みすれば、もしかしたら孫権は、曹操や劉備が目指した「全中華の統一」は考えていなかったのかもしれません。自分が治める呉の国。無駄な戦乱も無く、家臣や領民が穏やかに暮らせる国を作りたかったのかもしれませんね。

この記事を読んでくれた方が、少しでも三国志に興味をもってくれたら嬉しいです。

カヌタ&大山俊輔