ハンニバルのアルプス超え
 
 
前回はハンニバル・バルカについてかなり自分の偏った視点からまとめてみた。
 
 
前のエントリを書いてから1ヶ月半近くが経過したが、その間に大阪では大きな地震があった。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の一日でも早い復興を祈るばかりです。
 
 
ちなみに自分自身、今回の震源地となった大阪の茨木市にある摂陵中学・高校で5年と2学期を過ごした。
何故6年ではないかというと、中学校で入学した岡山白陵中学校を1学期で退学し、2学期目から転校したからだ。
 
 
そして阪神大震災の際には一時的に茨木にあった恩師の開業した塾の鍵を落ち着くまで勝手に居候させてもらっていた。
そんな避難場所だった街が今回は被災地になってしまったことに大きなショックを受けている。
 
 
ハンニバルのマスター・ピースといえばアルプス越え(BC218)とカンナエの戦い(BC216)の2つだろう。
そして、そのマスター・ピースの間にも、敵地であるイタリア半島でトレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いなどで勝利を収めている。
 
 

アルプス越え – 何がすごい?

アルプス越えを世界史上敢行したのはハンニバルとナポレオンが有名だ。
有名なナポレオンのこの絵も彼の対オーストリア戦に際してのアルプス越えを描いたものだそうだ。
 
ナポレオンのアルプス越え
 
 
ただナポレオンのアルプス越えは1800年。
対してハンニバルは紀元前200年代。まだ、ヨーロッパの地理も明らかになっていない時代に、しかも象を伴い5万人近い兵隊が未踏の地を越えたことは驚愕に値するだろう。山越えをしている最中に山岳ガリア人などの攻撃を受けたりしながら、かなりの兵が離脱し、そして象さんもかなり死んでしまったようだ。
 
 
自分もいつか死ぬまでに象を伴ったアルプス越えを再現してみたいと思っていろいろ調べてみたが調べるほどヤバイ(笑)。
いかにあの時代にこんな無謀をしたことが凄いかがわかって断念してしまった。
 
 
数万人の部下を伴い、馴れぬ土地で蛮族の攻撃を受けながらイタリア北部に到達できたハンニバル軍は当初出立したときの半分前後、26,000人程度だったらしい。いかに壮絶な行軍だったかがわかると同時に、半分の人間が彼についてきたことは驚愕に値する。
 
 

~カンナエの戦いに至るまで

行軍するだけでも凄いが彼の目的は別に物見遊山でイタリアに来たわけではない。
彼の父、ハミルカルの遺言に従ってローマを滅ぼすために来たのだ。
 
 
なのに、アルプス越えで兵は半分に、象もほとんどいなくなり憔悴しきった兵たちを率いて彼には次のミッションがあった。
 
 
それは、いち早くローマ軍の先遣隊を打ち破り現地ガリア人を味方につけること。
つまり、敵地でボロボロの兵を率いて敵を破って、しかも、敵地内から反ローマのガリア人を徴兵することだ。
普通に考えてありえないプロジェクトだが、彼は黙々とやり遂げた。
 
 
カルタゴ軍、アルプス越えてイタリア北部に現るの報にローマ元老院はショック。
2個軍団をもって迎撃にあたったがティキヌスの戦いでローマは敗北。さらに、トレビアの戦いでローマ軍の増援を打ち破る(トレビアの戦い)。
この勝利で、中立的な立場だった現地の反ローマ勢力が続々カルタゴ軍に参加。一気に50,000名まで兵が増えたそうだ。
 
 
その後、さらなるローマの増援をトラシメヌス湖畔の戦いで打ち破ったカルタゴ軍。
いよいよローマは国家存亡の危機に際して、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出した。
 
 

ファビウス
個人的にローマ側の人間で好きな人間の一人がこのファビウスだ。
実に、のらりくらりとしたたかで戦いにくいタイプの人間。持久戦でハンニバルを苦しめるが短期決戦を焦るローマ元老院と市民たちのプレッシャーかついにローマは今までに動員したことのないボリュームの兵を投入。実に80,000名近い兵だったらしい。紀元前当時の地中海世界の人口を考えると、いかにこの動員数がすごい数かがわかる。
 
 
そして、これこそがハンニバルの待ち望んでいたシナリオ。
次のマスター・ピースといえるカンナエの戦いでは、ローマの被害は絶望的。
死傷60,000名、捕虜10,000名という洒落にならない天文学的被害をこうむったうえに、更に指揮官レベルでも執政官パウルス、その他、80名の元老院議員が戦死した。イメージで言えば、国会議員の2割近くが一回の戦いで戦場で戦死してしまったのだ。
 
 

ハンニバルの惜しかったこと

カンナエの戦いでその名を大いに高めたハンニバル。
この敗戦により、南イタリアの都市カプアやシチリア島のシラクサなどの主要都市はローマを離反、カルタゴ陣営に属することを決定するなど旗向きは明らかにカルタゴ有利に進むかに見えた。
 
 
しかし、そうはならなかった。
結果的にハンニバルは10年以上に渡りイタリア半島南部に閉じ込められてしまう。
そして、その間にローマは逆にハンニバルの本拠地であるスペインを奪取、最後には本国であるカルタゴに攻め込むことになった。
 
 

では、何がハンニバルほどの天才の判断をミスらせてしまったのだろうか。
これこそが自分がハンニバルを尊敬するとともに、反面教師とする理由だ。
 
 
特にミスをできない戦いを強いられる創業間もないベンチャーにとって、アルプス越え~カンナエに至るまでの彼の大胆さ、そして、冷静さは驚嘆に値する。一方で、カンナエ後の彼の判断ミスは他山の石としなくてはとも思うのだ。
 
 
では、理由とは?
 
 

勝利を生かせなかった

一番のミスはカンナエの勝利を活かすことができなかったこと。
有名な話だが、カンナエの大勝利によって本来は敵の本拠地ローマに進軍すべきだったハンニバルはあえて降伏勧告の使者を送りはしたものの攻撃はしなかった。
 
 
その理由はハンニバル軍は多国籍の兵から成り立ち、ローマなどのような攻城兵器を持っていなかったため常に戦いは野戦を想定していたこと。
これは、ハンニバルのような合理主義者からすれば当然の判断だっただろう。
 
 
しかし、勝利の女神は何度も微笑まぬもの。
ワールドカップの試合を見ていてもこのことは常々感じる。
とはいえ、当事者には当事者の葛藤があるのだろう。
 
 
ハンニバルの部下でヌミディア騎兵を率いていたマハルバルは、
 
 
“So the gods have not blessed one man with every gift. You know how to win a victory, Hannibal, but not how to use it.”
「神は一人の人間にすべての才を与えなかった。ハンニバルよ、あなたは敵に勝利する方法を知っているが、その勝利を用いる方法を知らない。」
 
 
という言葉を残したそうだ。
確かに、蛮勇にも聞こえる発言だがベンチャー企業で大きくなった会社の多くは一見リスキーな意思決定を何度もくぐり抜けて大企業になっている。やはり、リーダーには時と場合によっては高転びのリスクをとってでも動かないとより大きな戦機を見逃すことがあるということを強く思わせる話だ。
 
 

ローマを過小評価し、情けをかけてしまった

これほどの大勝利、そして、大虐殺といってもおかしくないローマ兵を殺したハンニバルだが彼の言行をみていると意外と上品だ。
あくまで武人として敵軍を叩きのめすが、ローマを完全に滅亡させる気はなかったように思える。
 
 
一方でローマはカルタゴに降伏する気は一切なかった。
カンナエ後、ローマはなりふり構わぬ軍の再建を行った。
 
 
募兵の年齢を下げると同時にそれでも足りない部分は奴隷まで兵に組み込んだ。
そして、離反した同盟都市は徹底的に叩き潰す。一方、ハンニバル軍との直接の野戦は避け小競り合いをつづけながら離反都市を奪還していった。
 
 

こうして、普通なら国家崩壊となる大敗北によりローマは強くなり、そして、ハンニバルはカンナエの奇跡をモノにできなかった。
 
 

人の妬みを侮ってしまった

最後は人の妬みだ。
これは、いつの時代もある最も恐ろしい感情。
まさに半沢直樹の世界だ(笑)。
 
 
そして、何が恐ろしいかというと、ハンニバルほどの天才軍人です仲間であるはずのカルタゴ母国の人間たちの嫉妬を過小評価してしまった。
 
 
もちろん、ハンニバルがカンナエ後、すぐにローマに進軍しなかったのはミスだったかもしれないが、前述の通り兵員不足や攻城兵器がないなどの理由で籠城する敵との戦いを避けた事自体は決して戦略的には間違っていない。そして、しっかりとハンニバルは弟のマゴをカルタゴ本国に送り増援を依頼していた。
 
 
しかし残念ながらこの依頼は叶えられることはなく、援軍はむしろ戦地であるイタリアではなくスペイン防衛に送られてしまったのだ。
 
 
この最大の理由はハンニバルの純粋さではないかと思う。
確かに戦いの世界では、開戦前の根回しなど策略に長けたこの男も、男の嫉妬というものの恐ろしさは知らなかったようだ。
当然、これだけの大勝利をした人間を妬まない政敵がいないわけはない。
 
 
こうして、膠着したイタリア戦線に10年以上はりつけられ動くに動けないまま歳を重ねていくハンニバル。
その後、カルタゴ本国がローマ軍が攻め込まれて、その援軍としてせっかく占領していた南イタリアまで放棄。そして、ザマの戦いで宿敵、スキピオ・アフリカヌスに敗北することでハンニバル神話は終わることになる。
 
 
三国志に登場する蜀の諸葛亮孔明もその卓越した才能から国内で何度と足を引っ張られて北伐(敵国である魏の討伐)を邪魔されている。一方、ライバルの魏の司馬懿仲達も同じく嫉妬から一度は左遷されたものの、その後はしたたかに生き残り最後は彼の子孫が魏王朝を簒奪、普を建国した。
 
 
いつの時代も男たちの嫉妬に英雄は泣かされるのが運命。
敵ばかりでなく味方の心情まで理解して戦うことの大事さをこのハンニバルの教訓は教えてくれる。


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