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ナーディル・シャー 〜 ペルシャのアレクサンドロスと呼ばれた梟雄

ナーディール・シャー

ハビットマン/大山俊輔

こんにちは。ペルシャ研究家(自称)大山俊輔です。本職はb わたしの英会話という英会話スクールの経営者です。

先日、オスマン帝国のメフメト2世について暑苦しいエントリを書いてしまいましたが、メフメトを書くともうひとり書いてみたくなる人がいるのです。相変わらず世の中はコロナウィルスのせいで、外出する時間も減ってます。ということで、今回紹介するのはこの人です。

ナーディール・シャー

先日のメフメト2世を知ってる人は、多少なりともいるかもしれませんが、ナーディールのことを知ってる人はかなりのイスラム史、いや、ペルシャ史マニアかもしれません。

歴史家の中には「ペルシアのナポレオン」と評する人もいますがナポレオンの少し前の時代の人(1688年〜1747年)です。あるいは、「第二のアレクサンドロス」という方もいますが、彼のキャリアを見ているとインド侵攻など似てますし、こちらのほうが親しいニックネームかもしれません。

先日のメフメト2世は自分のことカエサルと言っちゃったりしてますが、私は基本歴史はぶっ飛んだ人が好きなんでしょうね。

イラン史で一代の梟雄とも言われます。三国志の曹操は自らを「乱世の奸雄、治世の能臣」といってツンデレてましたが、このナーディールもそれに負けるとも劣らぬ人物です。

ナーディール登場前までのざっくばらんなペルシャについて

ペルシャといえば今はイラン。
イランとは「アーリア人の国」の意味ですね。

現在、コロナウィルスの被害も多い国の一つで、時々アメリカと喧嘩になることや石油がたくさん取れることしかイメージのない方も多いかもしれません。

ですが、この国はすごいんです。

古代でいえば、オリエントを支配しアレクサンドロス大王に負けるまでチャンピオンだったアケメネス朝ペルシャ(BC550年〜BC330年)。その後、先日のオスマン帝国メフメト2世が滅ぼした東ローマ帝国とデッドヒートを繰り広げるササン朝ペルシャ(226年〜651年)

イラン高原からは「ペルシャ」の名前を冠した世界的大帝国が誕生しています。
この頃までのペルシャ人はイスラム化する前です。つまり、今私達がイメージするイランとは全く異なる習俗の国でした。

その後、ササン朝はまさかの新興勢力イスラム軍に敗北(642年:ニハーヴァンドの戦い)。ペルシャはイスラム化します。

その後、ペルシャ系のイスラム政権が誕生したりもしますが、世界史でもマイナーなエリア(どちらかというと支配される地域)になってしまいます。そして、更にペルシャには厄介なことが起きます。

モンゴルの侵攻です。

こうして、ペルシャはモンゴル帝国フレグの西征で支配下に入ります。
イル・ハン国(1258年 – 1353年)の誕生です。

このアラブ、モンゴルの支配を通じてペルシャはイスラム化、モンゴル(トュルク)化します。実は今のイランの民族構成もアーリア系イラン人が多数派ですが、その他25%はアゼリー人。すなわちトルコ系のアゼルバイジャン人です(アゼルバイジャン本国より、アゼルバイジャン系イラン人の方が圧倒的に人口も多い)。

その後、同じくテュルク系のティムールの支配を経て誕生したのがサファヴィー朝でした。

かつての教科書では、サファヴィー朝はササン朝以来のペルシャ系王朝と言われていましたが、初代イスマーイール1世自身が、白羊朝の君主ウズン・ハサン(トルコ系)の娘の子で、武力的背景もはトゥルクマーン、つまり、テュルク(トルコ)系の軍事力に依存していました。これは、異民族による征服王朝が続く中国史の中で最近まで隋や唐が漢民族による民族王朝と呼ばれていましたが、最近の研究で鮮卑系(モンゴル・テュルク系)と言われているのと似ています。

豊かな地には異民族(主に遊牧民)が入り込み、支配者となるのですね。

イスマーイール1世初代サファヴィー朝君主イスマーイール1世

さて、久々にペルシャに登場した巨大帝国サファヴィー朝。
アッバース大王の治世のもとで、対オスマン帝国、ポルトガルの戦争にも勝利し、新首都イスファハーンは「世界の半分」(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)と呼ばれるまでの繁栄を誇りました。

しかし、その繁栄も長続きしません。
こんな時に歴史に登場したのがナーディールです。

ナーディール、サファヴィー朝を乗っ取る

アッバース大帝の死後、サファヴィー朝は暗君が続きます。

ここぞとばかりに、周辺民族が反乱を起こすわ、ロシア、オスマン帝国は攻めてくるわで完全にペルシャの地は各国の草刈場となります。オスマン帝国にはイラクを奪われ、そして支配下のアフガニスタンは独立しペルシャ本国に攻め込んでくる始末。そして、英主ピョートル大帝のもとで突如大国化した隣国ロシアが南下をはじめます。

更にアフガニスタンの反乱は深刻な状況で独立したホータキー朝は逆にペルシャに侵攻。サファヴィー朝の王フサインは降伏、一度実質的に滅亡します。

しかし、その頃ペルシャには一人の梟雄が歴史に登場する準備をしていました。フサインの子タフマースブ2世を庇護し、摂政となり実権を握る男がいます。

若き日のナーディール・シャー、そのときの名前をナーディール・クリー・ベグ。ホラーサーンのクズルバシュ(トルクメン人)の集合体であるアフシャール部族の長です。ベグとは、テュルク系民族の遊牧部族長を意味する言葉です。つまり、まだ、この時点ではナーディールはあくまでも有力部族の長の立場でした。

ナーディールはタフマースブ2世を庇護しながら、部下として各地を転戦し、その軍事的才能・外交力を遺憾なく発揮します。対オスマン戦役、そして、ロシアとも和睦し旧サファヴィー朝領の大半を回復します。つまり、サファヴィー朝は摂政ナーディールのもとで再び最盛期を迎えるのです。

しかし、残念ながら相手が悪すぎました。

ナーディールはサファヴィー朝を再興する気持ちはさらさらありません。
こうして、ナーディールの発言権が増す中、最後の皇帝アッバース3世を退位させサファヴィー朝は名実ともに滅亡します(1736年)。

アフシャール朝国旗アフシャール朝の国旗

アフシャール朝の誕生です。

アフシャール朝の誕生:オスマン帝国、ロシア、アフガニスタン片っ端から喧嘩を売る

ヨナス・ハンウェイによるナーディル・シャーのポートレートヨナス・ハンウェイによるナーディル・シャーのポートレート

さて、アフシャール朝の君主となったナーディールは自らをシャー(「王」を意味するペルシア語)と名乗ります。

ナーディールがトップになったペルシャは国勢を回復。
今までやられたい放題だった周辺国にリベンジを開始します。

アフシャール朝成立の少し前からまずはその矛先を同じくイスラム世界のライバル、オスマン帝国に定め、ロシアとは反オスマン帝国であるギャンジャ条約を締結(1735年)。オーストリア・ロシア・トルコ戦争(1735年 – 1739年)で忙しいロシアをだまくらかして、アゼルバイジャンはじめ先のロシア戦争で失った領土を外交力で回復します。

こうしてロシアとの北方国境を固めたナーディールはロシア・オーストリアとの戦争で忙しいオスマン帝国との戦いにも勝利を収めて、サファヴィー朝時代にオスマン帝国に奪われた領域をほぼ奪還します。

北方と西方の国境を固めたナーディールは今度は矛先を東に
1738年にはアフガニスタンに攻め込みカンダハルを包囲します。サファヴィー朝末期にやられた倍返しですね。

ナーディール・シャーのカンダハル包囲ナーディール・シャーのカンダハル包囲

インド侵略とダイヤモンド「コー・イ・ヌール」の物語

インドへの侵攻

インドに侵攻するナーディール・シャーインドに侵攻するナーディール・シャー

こうして、西はイラク、アナトリア東部、イラン高原からアゼルバイジャン、そして、アフガニスタンから現在のパキスタンの一部までを征服したナーディールは次の矛先をインドに定めます。

この頃のインドはナーディールと同じトルコ系のムガル帝国(1526年-1858年)が同地を支配していました。しかし、この頃は既にムガル帝国は国力を大いに落とし、イギリスはじめ西欧列強の進出もはじまっています。

ペルシャはナーディールのもとで国力を回復、領土も大幅に拡大した中いよいよムガル帝国へ侵攻します。1739年にナーディール率いるイラン軍はインド国境に侵入し、ラホールを占領します(ムガル帝国は現在のアフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュを支配していた)。

更にナーディールの軍はインドの奥深くまで侵攻します。1739年カルナールの戦いでムガル帝国の大軍を打ち破ったナーディールはデリーに入城します。ここで、不服だったデリー市民が反乱を起こしますが武力で鎮圧、3万人近い死者を出したと言われています。

こうして、ナーディールの軍はムガル帝国の膨大な富を持ち去ります。

有名なところでは、コ・イ・ヌール、ダリヤーイェ・ヌールのダイヤモンド。また、シャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も持ち出されます。

この略奪で彼が得た富は全兵士6ヶ月分の給料の支払いを可能にし、イラン本土では3年間の免税を行っても余りある富であったと言われています。(インドにしてみれば本当にトバッチリです)

コ・イ・ヌールとナーディール・シャー

ここで少しコ・イ・ヌールについて書きます。

デリーを占領したナーディールはこのダイヤモンドの噂を聞きつけていましたが、宝石はムガル帝国の皇帝、ムハンマド・シャーのターバンに隠されていました。どうしても、このダイヤモンドが欲しかったナーディールは、カルナールの戦いで講和を結ぶ際に、自ら交渉にあたったムガル帝国の皇帝、ムハンマド・シャーに、友情の証としてお互いのターバンを交換することを提案します。

ナーディールシャーとムハンマドシャーナーディール・シャーとムハンマド・シャー

きっとこのときのムハンマドシャーはぐぬぬぬ、という感じだったでしょうね(笑)。

こうして、そのターバンを開けてみた時に出てきたのがコ・イ・ヌール。これを見たナーディールはペルシャ語で「کوه نور」(クーヘ・ヌール)といったそうです。これがコ・イ・ヌールの語源だと言われています。(意味は「光の山」

しかし、この宝石は所有者に不幸をもたらすジンクスがありました。このあたりは、同じダイヤ界のホープダイヤとも似ていますね。

後述しますが、ナーディールはこれからまもなく暗殺。その後、ダイヤは持ち主を転々としますが基本、男性の所有者は皆不幸な最後を遂げています。その後、ダイヤは東インド会社を経て1850年にイギリスのビクトリア女王に献上されます。ただ、残念なことに当時のダイヤモンドのカット技術では、そこまでの輝きがなかったようで、1851年のロンドン万博(第1回万国博覧会)の目玉商品として登場しましたが、あまり受けが良くなかったそうです(笑)。

そこでビクトリア女王は、当時普及しだしたブリリアントカットで「コ・イ・ヌール」をブリリアントカットに再カットさせます。これが、現在の「コ・イ・ヌール」(108.93カラット)で、輝きは増したものの、サイズは当初の183カラットから半分近くまでサイズダウンしてしまいました。その後は、代々女性のみが王冠に着用するものとして、現在はエリザベス女王の王冠に飾られています。(写真)

エリザベス女王とコ・イ・ヌールエリザベス女王とコ・イ・ヌール

ちなみに、インドは独立以降、コ・イ・ヌールの返還を求めているそうです。

ナーディールの帝国の拡大

ナーディルは、この富を使って更にオスマン帝国との戦いを行い領土の拡大をするとともに、中央アジアのブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国の遠征を行います。こうしてみてみると、侵攻しているエリアの殆どがアレクサンドロス大王と同じなんですよね。意識していたのでしょうか。

アフシャール朝最盛期の領土アフシャール朝最盛期の領土

ナーディールの最後とその後

しかし、これだけの苛烈な政策を行ったナーディールには当然多くの政敵がいました。

インドでの虐殺のみならず、自分の君主であった主君タフマースブ2世と2人の子を処刑しています。このあたりは、三国志の漢王朝最後の皇帝献帝は、曹操の息子曹丕の話と比較すると面白いですね。献帝は禅譲を通じて廃位されていますが、山陽公に封じられます。つまり、殺されなかったのです。しかも、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けています。

恨みを買いすぎないメカニズムは歴代王朝の交代の激しい中国の方がしたたかですね。

こうして、ナーディールにはあっけない最後がやってきます。

1747年ホラーサーンの反乱鎮圧に向かって遠征中、自らの出自母体でもあるアフシャール族家臣によって暗殺されました。毒殺とも言われています。一番の身内に最後は暗殺されてしまうという最後でした。

彼の死後、その甥や兄弟が後継者となりますが長続きせずアフシャール朝は50年であっけなく滅亡してしまいます。

わずか11年の在位の間にイラク〜アナトリア東部・カフカス〜イラン〜中央アジア・アフガニスタン・インド北東部を支配する大帝国を作ったナーディールですが、その滅亡後は、これらの地域は再び草刈場となります。アフガニスタンは近代アフガニスタンの原型ともなるドゥッラーニー朝が、そして、イラン高原では後の王朝であるガージャール朝(1796年-1925年)創設に関わるガージャール部族連合はナーディールのもとで力を蓄えていました。

いわば、これらのエリアを一度ちゃぶ台返しをしてその次の時代にバトンタッチをしたともいえるでしょう。ちゃぶ台返しといえば、同じくローマ1000年の歴史をぶっ壊して、地中海世界からヨーロッパまでちゃぶ台返しをしたメフメト2世の物語もぜひ読んでみてくださいね。

オスマン帝国・メフメト2世イスラム界の天才厨二病君主メフメト2世~力づくでローマ帝国の後継者となった男

ありがとうございました!

大山俊輔