大山俊輔ブログ ー 脳科学による習慣ハック・歴史・経済のサイト

信念の人 樋口季一郎 – 多くのユダヤ人を救い北海道をスターリンから守った男

樋口季一郎

大山俊輔

こんにちは。大山俊輔です。

コロナウィルスの影響が本格化してきました。
ウィルスも怖いところですが、経済への影響が抜き差しならない状況です。

役所に行けば、
「ルールですから」で今もクラスターのような場所で長いこと待たなくては融資のための書類が揃わない状況です。

国会を見ていれば、
「給付金の審議は補正予算まではできません」と手続き論を話しています。

ほんと、この日本人の法科万能主義なんとかならんもんですかねぇ。
じゃないと、最後まで法律ですからーで滅んじゃいますよ。
法科万能主義非常時における法科万能主義のリスク

実は同じようなことが戦中・戦後にもありました。

「連合国に降伏したのだからいち早く武装解除すべきである」
こんな頭でっかちの司令官のもとで、50万人以上の人がシベリア抑留されたのです。

一方で、非常時だからこそ自分の頭でしっかりと考えて、自分の心の根底にある信念、すなわちプリンシパルに基づいて行動を取ることで多くの人々を救った人たちもいます。

前回紹介した根本博はまさにこの信念の塊のような人です。多くの在留邦人を救い、そして、戦後は恩人である蒋介石への恩返しをしました。
張家口の根本博張家口の根本博 – 本当に大事なものを守るためには時に反逆者になる覚悟が必要であることを体現した男 根本博と蒋介石金門島に立つ根本博 – 恩義ある蒋介石のために、そして台湾のためにすべてを捧げた後半生 今回紹介する樋口季一郎もその一人です。

  • 戦前には、同盟国であったドイツからの要請を無視して自らの判断で多くのユダヤ人を救助。
  • 戦中は大本営の指示に従わず、キスカ島の撤退戦を演ずる。
  • そして、戦後は大本営の指示に背いて占守島の戦いでソ連軍を撃破。スターリンの北海道占領の野望を打ち破ります。

全てに共通するのは、法律やルールではなく自分の信念を重視したこと。彼はそれを「武士道」とも言いましたが、その根底にあるのは彼が終生大事にした「人類愛」でした。

イスラエルのゴールデンブック:偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口

イスラエルのゴールデンブックゴールデンブック

イスラエルにはゴールデンブックという本があります。

ゴールデンブックには、主に人類史に大きな貢献をしたユダヤ人の名前を記しています。有名どころとしては、モーゼ(十戒のモーゼ)、メンデルスゾーン(作曲家)、そして、アインシュタイン(物理学者)など誰でも知っている著名なユダヤ人の名前が刻まれています。

ゼネラルヒグチゼネラルヒグチ

しかしその中に、ユダヤ人ではなく、「GENERAL HIGUCHI TOKYO」の名前が刻まれていることを知る人は少ないのではないでしょうか。

日本人にとって戦時中のユダヤ人を救った人といえば「命のビザ」の杉原千畝が有名ですが、この樋口季一郎、そして、その部下の安江仙江大佐も決して忘れてはならない人です。

樋口 季一郎について

ここで少しだけ樋口季一郎について触れさせていだきます。
1888年生まれの1970年没、ということで私の生まれる直前までご存命でした。

兵庫県は淡路島の出身。生まれた時の名前は「奥濱(おくひら)」でした。

実家は没落した廻船問屋で、その後、樋口家に養子として迎えられます。陸軍士官学校を卒業しますが、東京外語学校でロシア語を学ばれています。そのロシア語のスキルを買われて、シベリア出兵(1918〜1922)に伴いウラジオストクに赴任、そして、駐在武官(少佐)としてポーランドにも駐留しています。

こうした経験を通じて、陸軍内きってのロシア通であると同時に赴任先で多くのユダヤ人との知己を得たことが、のちの樋口の人格形成に大きく影響したものと思われます。

ハルピン極東ユダヤ人大会とオトポールの奇跡

若き日の樋口季一郎若き日の樋口季一郎

さて、日中戦争(1937-1945)開始まもない昭和12年(1937年)8月8日、樋口は少将に昇進し、関東軍司令部付として、ハルピン特務機関長に就任します。国境を接するソ連に睨みをきかせるには、ロシア通の樋口の経験と諜報戦略が必要であったのでしょう。

当時の関東軍司令部は、植田謙吉大将、そして、参謀長は後の総理大臣となる東条英機中将がその任を預かっていました。

五族協和を実践

特務機関長として就任するや、早々に、樋口はこのような方針を徹底します。

  • 満州国は日本の属国ではない。満州国、満州国人民の主権を尊重し満州人の庇護に務めること。
  • 満州人の不平不満にしっかりと耳を傾けて、どんなことにでも耳を傾けること。
  • 悪徳な日本人はびしばし摘発すること。

これらの方針はかなり異例のことでした。
名義上は独立国家とはいえ、満州国は関東軍の影響下にありまた、職にあぶれた内地人が多くやってきて現地満州人とのいざこざも当時発生していました。

こうした状況に心を痛めた樋口は本来の満州国の建国理念であった五族協和(日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人が手を取り合う)を実践しました。

一方で、特務機関として北方の虎たるソ連の情勢には目を配ります。

カウフマン博士との出会い〜ハルピン極東ユダヤ人大会

ハルピンは極寒の地。冬には零下30度まで温度が下がります。
樋口が特務機関長に就任して間もない1937年12月、珍しい来客を迎えました。

その男の名はアブラハム・カウフマン
ハルピンでは有名な医師であるとともに、ハルピンユダヤ人協会の会長を務める人物でした。

アブラハム・カウフマンアブラハム・カウフマン

反ナチの闘士でもある博士は、こう樋口に語りかけます・・・・。

「すでにご存知のことと思いますが、ナチスドイツでは、最近ユダヤ人が財産を没収され、国外退去を強いられたり、収容所に強制収容されるなどの迫害を受けています。学者、音楽家、技師といった社会的に著名な文化人たちが次々に追放されている現状です。世界的な物理学者アインシュタイン博士もその一人です。」

そして、このように樋口に語りかけます。

「ゼネラル・樋口!おなじく血を分けたユダヤ人として、私はこれら同胞の惨めな姿を無視してはおれないのです。お聞きしたところによると、ゼネラルは以前よりユダヤ人に対し深い愛情と理解を寄せられているとか。ゼネラル!お願いです!お力をかしてください!」

博士が樋口に頼んだことは、この満州国の首都であるハルピンで極東ユダヤ人大会の開催でした。この地で、アジア地域に散らばるユダヤ同胞の代表者を集めることで、ナチの暴挙を世界の良識に訴えることだったのです。

「博士のお気持ちはよくわかりました。」

樋口は行動の人です。
博士の依頼を即座に快諾し行動に移しました。

彼らに安住の地を与えよ!〜ハルピン極東ユダヤ人大会の大演説

こうして、翌昭和13年(1938年)1月15日。
ハルピン商工倶楽部で第1回極東ユダヤ人大会が開催されたのです。めちゃくちゃ行動が早いですね(笑)。

この場に集ったのは日本、上海、香港などアジア各地在住のユダヤ人。
その数は2千名以上。商工倶楽部は人々で埋め尽くされます。

カウフマン博士の開会の辞とともに、各地域の代表がナチスドイツの不法を弾劾するとともに、世界の良識に対して救済の声を荒げます。

そんな中、最後に登壇したのが樋口でした。
樋口はこのように語りかけます。

「ユダヤの国の人々よ!」

「諸君らは、世界のいずれの国においても祖国なる土をもつことができない。まことにお気の毒としかいいようがない。今日、地球上のいかなる無能の民族であれ、いやしくも民族である限りなにほどかの土を持っている。ユダヤ人は、科学、芸術、産業の各分野において他のいかなる民族よりも優れた才能と天分を持っているのである。」

「そのことは歴史が証明している。しかるに、文明の華、文化の香り高めるべき20世紀の今日、世界の一角においてキシナウのポグロム(集団的迫害行為)が行われ、ユダヤに対する追放を見つつあることは、人道主義の名において、また、人類のひとりとして、私は心から悲しまずにはいられないのである。」

開場から激しい拍手が沸き起こります。

「私は思うのである。ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。仮に追放せんとするならば、その行く先をしっかりと明示し、あらかじめその地を準備すべきである。当然取るべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と断じなければならない。」

「私は個人としてこの行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!そして、また祖国を与えるのだ!」

演説が終わると、すさまじい歓声がおこり熱狂した青年が壇上に駆け上がり号泣しています。

「閣下!ありがとうございます!」

日独伊三国防共協定と民族問題は別

この演説には、各国の特派員や新聞記者が参加していました。
当時の日本は、1936年の日独防共協定、1937年の日独伊防共協定とドイツとの関係を強化している時期です。

イギリスの記者が核心をついた質問をします。

「ゼネラル!あなたは大変明快に見解を述べられた。しかし、日本は、ドイツ、イタリアと防共協定を結ぶ関係です。あなたの演説は明らかに水をさす内容ではありませんか?」

これに対して、樋口はこのように答えます。

「日独関係はあくまでもコミンテルンとの戦いである。ユダヤ人問題は関係ない。ユダヤ民族に同情的であるのは、古来からの日本人の精神である。日本人はむかしから義を持って弱気を助ける気質なのだ。イデオロギー問題と混同しては困る。」

この言葉に記者は言葉を返せませんでした。

そう、記者の祖国であるイギリスやアメリカは1933年のナチス政権誕生以来、ユダヤ人の自国への入国を拒否していたのです。日本は、占領下の上海はじめ神戸、横浜などに多くのユダヤ人街が形成されるなどユダヤ人問題については非常に同情的であったからです。確かに枢軸国側に回って戦後の汚名を背負ってしまった日本ですが、ことユダヤ問題に関しては連合国側こそがナチスに迫害されたユダヤ人に救いの手を差し出さず、日本のほうが遥かに人権的配慮をとっていたのです。

オトポールの奇跡とヒグチルート

極東ユダヤ人大会大会から2ヶ月後、大事件が発生します。

満州里と国境を接するソ連領オトポールにナチスのユダヤ人狩りから逃れてきたユダヤ人難民(数千名から最大で2万名と言われる。諸説あり。)が、吹雪の中立ち往生します。満州国は日本の傀儡化が進み、ドイツとの関係を考慮し入国を拒否しており、食料は枯渇、飢餓と寒さで凍死者が出始めているというニュースです。

樋口はこう答えます。

「こういう問題が起きるのは、満州国外務部がだらしないのだ。満州国は独立国家ではないか。関東軍なんぞに遠慮すべきではない。」

関東軍に喧嘩を売るということは全陸軍に対して喧嘩をすることです。
ヒトラーの総統就任後、日々復興し軍備を拡大するドイツに陸軍部はすっかり幻惑されており、ドイツへの傾倒が極まったなか、樋口はユダヤ人救助に立ち上がります。

樋口を慕う部下やカウフマンは樋口の失脚、しいては、命を心配しますが樋口はこう答えたそうです。

「俺のことを心配してくれるのはありがたい。だが、外務部にまかせたままでは難民は凍死してしまうだろう。俺はやる。むろんやる以上は首をかけてやる。かけなくてはできない仕事だよ。」

こうして、樋口の快諾から2日後となる3月12日。

ハルピン駅には、多くの難民が到着します。カウフマン博士はじめ、ユダヤ人協会の幹部が温かい食べ物や飲み物を支給し病人と凍傷患者を除く全員が市内の商工倶楽部や学校に滞在後、大連、上海を経由してアメリカなどに渡ります(一部はハルピンに入植)。

「良かった!」「本当に良かった!」

樋口とカウフマン博士は手を取り合います。

ナチスの抗議と日本の対応

オトポール事件からまもなく、樋口の部下が恐れていたことが現実のものとなります。

リッベントロップリッベントロップ外相

ドイツのリッベントロップ外相がオットー駐日大使を通じて抗議書を送ってきたのです。

『東西の雄たる日独の国交はますます親善の度を深めている。しかしながら、満州国にある貴国の某ゼネラルは、我がドイツの国策を批判するばかりか、ドイツ国家およびヒトラー総統の計画と理想を妨害する行為に及んでいる。この要人について、すみやかに貴国における善処を希望する』

外務省欧亜局はびっくり仰天して、この文書を陸軍省に回送、そして、その日のうちに関東軍から樋口のもとに出頭命令が通達されます。(外務省が海外の恫喝に慌てふためくのは今も昔も同じですね(笑))

当時の参謀長は後の総理大臣ともなる東条英機。

若宮参事官はじめ樋口の側近やカウフマン博士が心配する中、樋口は出頭します。
そして、東条英機と面会した樋口はこのように言いました。

「オトポール事件について、私の行為ははっきり申し上げておく。私の行為は絶対に間違っていない。」

東条の顔色が変わります。
さらに樋口はこう言います。

「もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている。」

東条は一言も発せず、耳を傾けます。
そして、いくぶん皮肉を込めて東条の顔を正面から見据えた上でこう言い放ったそうです。

「東条参謀長!あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいとお考えになるのか!」

この言葉に東条は天井を仰いでこう言います。

「樋口君、あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からもこの問題は中央に不問に付すよう伝えておこう。」

その後も、ドイツから再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したそうです。

戦後、A級戦犯として処刑された東条英機ですが、武人として命をかけた樋口の声には耳を傾けざるを得なかったのでしょう。その後、ドイツからの要請とは真逆に、樋口は参謀本部二部長への栄転となりました。このあたり、まだ、当時軍国主義に傾倒しつつある日本ですが民族問題については良識が残っていたのかもしれませんね。

キスカの撤退と占守島の戦い

樋口は1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦の指揮にあたります。

アッツ島の玉砕、キスカ島撤退

アッツ島とキスカ島アッツ島とキスカ島

大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後、日本は北海道とアラスカ州・アリューシャン列島を結ぶアッツ島、キスカ島を占領し、守備隊を配備していました。

しかしながら、当初の戦略目的はその後の敗戦続きで変更されます。
そして、米軍の反転に伴い、この両島は急遽日の目を浴びることになります。

樋口は当初、大本営に両島の守備隊を撤収することを進言していましたが、大本営は両島の保持を命じます。アッツ島の守備に任じられたのは山崎保代大佐。赴任する山崎に樋口はこう言います。

「万が一、米軍が上陸することがあれば自分は万策尽くして兵員を増強する。」

この言葉に偽りはありませんでしたが、樋口は思わぬ敵に阻まれます。

その敵とは内なる敵。すなわち陸海軍の仲違いです。
以前、別のエントリでも紹介したように陸海軍は仲が悪く、飛行機、軍需物資から戦時中から醜い争奪戦をしています。
永野護『敗戦真相記』の書評・レビュー【書評・レビュー】永野 護『敗戦真相記』を読んで

樋口は日本の敗戦は「連合軍に負けるからではなく、内部抗争が敗因になるのではないか」。そんなふうに思っていたことが現実となります。こうして、アッツ島への援軍派兵は中止に。こうしてアッツは見捨てられることになりました。樋口は山崎に対して断腸の電報を打ちます。

「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」

こうして、山崎はじめ将兵は玉砕します。
樋口は山崎への約束を守れなかったことで体重を10kg近く落とし衰弱し、生涯このことを悔いたそうです。

一方で、このアッツでの悔恨がキスカ島では活かされます。海軍の協力をとりつけた樋口は、キスカ島を放棄することを決定。陸軍中央部の決済を仰がず、自らの一存で全兵力の撤収を命じます。

なお、撤収に際して兵員には武器をすべて海中投棄することを命じます。
このことは、戦中の価値観としてはありえないことでした。菊の御紋が刻まれた神聖なる銃を海中に投棄することはありえないことでありますが、武器を投棄することで兵員は身軽に撤収することが可能となったのです。

こうして、キスカ島の守備隊は奇跡的な脱出劇を成功させます。

包囲していた米軍も、アッツの玉砕を経験しており徹底抗戦を覚悟していましたがそれに反して日本軍は夜陰に紛れて全員が無傷で撤収します。こうして「奇跡の作戦」が実現されたのでした。

終戦〜占守島・樺太の防衛

さて、日本の敗戦が濃厚となる中、日本は和平交渉に最後の努力を続けていました。しかし、仲介役を頼んだ相手が悪すぎます。この人です(笑)。日本はいつもお人好しですねぇ。。。

スターリンいつものスターリン閣下です(笑

漁夫の利を狙うソ連はギリギリまで回答を焦らします。
そして、昭和20年(1945年)8月8日午後5時(モスクワ時間)、待ちに待ったモロトフ外相の回答が日本大使館に届きます。

それは、和平とは真逆の対日宣戦布告です。

ここまで恥さらしな外交はありませんが、ロシア通であり対ソ諜報を行ってきた樋口には、この展開はずっと予期してきたことであり警鐘を鳴らしてきました。しかしながら、大本営も外務省もソ連にすがりつき、そして、最後は宣戦布告されてしまいました。

恐れていたことがついに起きてしまった。
ソ連軍は、満州、樺太、朝鮮などへ殺到します。

そして、茫然自失のまま、昭和20年(1945年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾します。

大本営は、各方面軍司令官に対して即時戦闘を停止することを命令します。樋口はこれを踏まえて、直ちに全軍に訓示を発します。とかく、将兵の軽挙妄動を戒め、内外に対して日本武士道の真髄を発揮すべし。

同時に、ソ連に対しての警戒は解きません。実際、ソ連はヤルタ会談で、ルーズベルト米大統領と密約を結んいます。

すなわち、対日参戦への見返りとして南樺太とすべての千島列島の獲得です。さらにスターリンは千島列島のみでなく、あわよくば北海道から東北まで占領することを目論んでいたとも言われています。

断固反撃、撃滅すべし

ソ連軍の侵攻

こうして、南樺太のソ連軍は停戦せず、終戦後となる8月18日には千島列島の占領作戦に着手します。千島列島北端の占守島に上陸し、戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍に対して攻撃を開始します。

「ソ連軍上陸す」

ここで樋口の心は揺れます。
敵軍に蹂躙されても大本営の指示に従うべきなのか、それとも、自衛を命ずるべきか。

しかし、樋口は内なる声に耳を傾けます。

第五方面軍指揮下の第91師団長の堤不夾貴(つつみふさき)中将宛にこのように電報を打ちます。

「断固反撃して、ソ連軍を撃滅すべし」

こうして、占守島の戦いが起きます。

この戦いでは、池田戦車隊などの大活躍によりソ連軍に大打撃を与えました。日本軍の損害は死傷者600名、砲6門を破壊され戦車20両が破壊。一方、ソ連軍は艦艇撃沈14、舟艇20、火器50門、戦死2500名、そして、戦傷行方不明2000。日本軍の圧倒的な勝利で終わりました。

池田末男池田末男 – 戦車隊の神様、そして、作家司馬遼太郎の恩師として有名な方です

これは満州、樺太を含めた対ソ連戦で日本軍最大の勝利であると同時に、ソ連軍の進撃を遅らせることに成功します。こうして、北方四島まで日本は占領されたものの北海道・本州へのソ連軍の侵攻は防がれたのでした。

もし、占守の勝利なければ少なくとも北海道まではソ連領になっていて今も朝鮮半島のように南北分断の悲劇が続いていたかもしれないのです。

恩義を返すのは今だ〜立ち上がるユダヤ人

スターリンはこの占守島での恨みを忘れていませんでした。

極東国際軍事裁判(東京裁判)に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名しています。

しかし、この時、世界ユダヤ協会が立ち上がりました。
当時、ニューヨークに本拠を置く世界ユダヤ協会にはオトポールで樋口に救われた難民が幹部となっていました。

「オトポールの恩を返すのは今だ。」「我々は今こそ勇気を持って立ち上がるべきである。」

こうして、世界各地のユダヤ人に激が飛び、樋口救出運動がはじまりました。こうした運動は、アメリカ国防総省を動かし、そして、マッカーサーを動かしました。マッカーサーはこの後ろ盾を得て、スターリンの樋口の引き渡し要求を拒否し身柄を保護しました。

こうして、樋口の戦後が終わります。

戦後の友情

実は、樋口がユダヤ協会の運動を知ったのはそれから数年後となる昭和25年のことだったそうです。

アインシュタインアインシュタイン

この時、実は超大物ゲストが来日しています。アインシュタインです。アインシュタインが訪日し渋谷のユダヤ教会でお祭りが開催された際、樋口夫妻が招待されます。このお祭りの幹事役を務めた男の名はミハイル・コーガン

かつて、ハルピンで樋口がナチス・ドイツを弾劾する演説を放った時のボディーガードをつとめた青年です。そして誰もが知るあのゲーム会社「タイトー」の創業者でもあります(今は、スクウェア・エニックスグループ企業です)。そう。「タイトー」=「太東」とは「極東の猶太(ユダヤ)人会社」が名前の由来なのです。私も散々ファミコンのゲームでお世話になりました(笑)。

タイトーとミハイルコーガンタイトーといえばインベーダーゲームですね

コーガンは流暢な日本語でこう演説します。

「我々はユダヤ民族の幸福に力を貸してくれた人々の恩を忘れてはならない。そのためには、それらの功労者を永遠に讃えようではないか。エルサレムの丘の上に『黄金の碑』を建立することで。」

コーガンの演説が終わった瞬間、講堂に集まったユダヤ人から凄まじい拍手が巻き起こります。彼らは口々に、「ヒグチ」「ヒグチ」と連呼し、歓声は鳴り止まなかったといわれています。

こうしてできたのが、はじめに紹介した『ゴールデン・ブック』です。

これは、世界中のユダヤ人から寄付された、金貨、金の首飾り、指輪、中には金歯まで送られてきた金で鋳造された高さ3メートル、厚さ1メートルに及ぶ本のような形の黄金でできた碑です。

そして、この碑の4番目に樋口の名が、そして、5番目にその部下の安江仙江大佐の名が刻まれたのです。

内なる声と対談を続けるには

いかがでしたでしょうか。
激動の人生を歩まれた樋口季一郎ですが、徹頭徹尾彼が守ったものがあります。

それは、自分の内なる声です。

多くの人が、組織のルールに縛られ、そして、上下関係に振り回されます。
特に大きな組織で終身雇用の関係を結ぶと、出世=人間関係となってしまうため、仮に自分の想いと異なることことであっても、先輩の言うことに従い、そして、心を殺して黙々とやってしまうのが人間の弱さです。

その最たるものはエルサレムのアイヒマンに代表される「陳腐なる悪」(Banality of Evil)ではないでしょうか。

そう、「悪」とは「悪たらしめるもの」ではなく「陳腐である」故に悪なのです。そして、陳腐故に数百万、数千万の人類の未来を奪ってもきました。日本の国力を落とし、無垢の民を苦しめてしまうことがわかっていても、政治家や財務省の役人諸君が消費増税に突き進むのもひとえに組織の論理なのでしょう。

日本的フェティシズム日本的フェティシズム~戦争における餓死と経済におけるGDP減少を招くやっかいな病

中にはこうしたことに異なる意見を持つ人が内部にいることでしょう。ですが、ぜひ、そんな人は思うだけではなく、行動に移してはじめて意味があることを理解してほしいのです。

今思えば私自身、サラリーマン時代何度か社長や上司に噛み付いてきました。後から振り返ると、世間知らずの向こう見ずな行動で、思い上がり甚だしいと反省することばかりです。一方で、若く向こう見ずではありますが、自分なりの愛社精神と自身の首をかけて提言しましたし、叶わずして1つの会社は去る事になりました。

樋口は常に組織を追い出されることを覚悟していました。時には命を狙われることすら、覚悟してこうした判断を行っていたことでしょう。それと比べれば、今の私達が失うかもしれないのはたかが出世街道程度のものです。

それより大事なものが何なのかを樋口の物語は今に語りかけてくれるのではないでしょうか。ありがとうございました!

大山俊輔