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アドワの戦い – 日露戦争もびっくり、近代世界史におけるGiant Killing(番狂わせ)

アドワの戦い

ハビットマン

こんにちは。習慣デザイナー・ハビットマンShunもとい大山俊輔です。

今日は世界史エントリになります。
先日のラグビー・ワールドカップでは日本はアイルランドやスコットランド等といった強豪をまさかの勝利で終えました。

ところで、こうした番狂わせのことを英語では“Giant Killing”(巨人殺し)というそうです。略してジャイキリとかいう人もいますね。

日本って、スポーツでもマイアミの奇跡(1996年のアトランタオリンピック)などのジャイキリを定期的に演じます。同じように、世界史という枠組みの中でも日清戦争、日露戦争といったジャイキリをやっています(日清戦争はジャイキリじゃないと思ってる人もいますが、当時の国力差で見れば十分にジャイキリです)。

日本の話しはここまでにして私が好きな世界史におけるジャイキリといえば、以前ご紹介したカルタゴの名将ハンニバルによる「カンナエの戦い」も好きですが、今日ご紹介する、エチオピアによるイタリアを完膚なきまでに打ちのめした「アドワの戦い」も捨てがたい戦いです。

ハンニバルのアルプス超えハンニバル・バルカという男 – 自分のロールモデル(その1)

世界史などの教科書ではサクッとアフリカ分割の紹介の中の、一つの例外事例として過ぎ去ってしまう戦いです。ですが、この戦いにおいて、エチオピアは12万近い兵力を動員しています。当時の戦いとしては相当な動員兵力です。

また、エチオピアは日本とも実は縁の深い国でもあります。
このエントリでは、このアドワの戦いについて紹介をします。

エチオピアという国について

さて、エチオピアと聞いて具体的な場所や国のイメージを持てる方は少ないのではと思います。

私の世代(1975年生まれ)であれば、子供の頃にニュースで干ばつによるエチオピア飢饉を覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

世界最古の王朝

そもそも、アフリカ大陸はひっくるめて日本人は見てしまいがちですが、先程のハンニバル・バルカのいたカルタゴ(現チュニジア)のような北アフリカはいわゆる黒人住民が多数を占めるサブサハラ・アフリカとは文明的にも異なり地中海世界に分類されます。

また、サブサハラの黒人国家を形成する民族の中でもニジェール・コンゴ系の方からコイサン系の方まで様々であり、それらを遠く離れた日本からは「アフリカ」の一言でまとめて理解してしまっているのです。

では、エチオピアというどうでしょうか?
実は、この多様性あふれるアフリカの中でもさらに異色の国家であります。

まず、近代まで存続したエチオピア帝国。
そのルーツは紀元前10世紀にまで遡るといわれています。ということは、もし、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が退位することがなければ、世界最古の存続する王朝は日本ではなくエチオピアだったということですね。

ユニークな民族構成

また、一般的に私達がイメージするアフリカの黒人の方と少しエチオピア人の顔立ちは異なることが分かります。

ハイレ・セラシエ
最後の皇帝ハイレ・セラシエの写真
(出典:https://ja.wikipedia.org/)

また、アメリカなどでも活躍するアフリカ出身のモデルさんの中には、エチオピアやお隣のソマリアの方が多いようです。

彼らに共通するのは、周辺アフリカ諸国の人と比べると薄い肌の色と彫りが深い目鼻立ち。

エチオピアのルーツはイエメン方面の移住者と、王朝はソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称していたくらいですから、中近東(アラブ人、ユダヤ人)と現地人の混血であったのではないでしょうか。

アフリカでは珍しいキリスト教国家

また、アフリカ諸国といえば北アフリカはイスラム、そして、サブサハラの多くは土着宗教である中、古代よりキリスト教(エチオピア正教会)であったことも他のアフリカ諸国と異なります。大航海時代に、イスラムの脅威を避けながら沿岸開拓をしていた欧州諸国では、エチオピアは伝説のプレスター・ジョンの国として真剣に対イスラム戦線を形成することを考えていたそうです。

そして、時代は帝国主義へ。
アフリカ諸国の大部分は、イギリスとフランスに分割されます。

アフリカ分割とエチオピア

出典:https://hosokawa18.exblog.jp/20839813/

19世紀後半に国家統一を成し遂げたイタリアは遅ればせながら、このアフリカ分割に参戦します。その時に立ちふさがったのが、エチオピア帝国でした。

アドワの戦いの背景について

背景〜イタリアから見た視点

まず、多くの方がご存知ではないかもしれませんがイタリアという国が誕生したのは1870年。

近代に入ってのことです。
それまでの間、イタリアはフランス、オーストリアなどの周辺諸国に介入され、分断されたまま近代を迎えたのです。

そんなイタリアがサルディーニャ王国及びガリバルディなどの活躍により統一(コノの話は話で心沸き立つものがありますがまた別の機会に)。こうして、西欧に1つの強国が誕生するわけですが、この時代、イギリスとフランスによる植民地獲得戦争の真っ只中。

そのような中でイタリアもアフリカ分割に参戦します。
残念ながら、地中海を挟んで目の前の北アフリカはエジプトはイギリスにその他はほぼフランスが独占。付け入るスキがありません。

そこで目をつけたのがアラビア半島を挟む紅海沿岸諸国。
時代は、スエズ運河が開通した時期と重なります。従来の喜望峰経由のルートを取らずともアジアに行けるとなれば、俄然、このエリアの重要性が高まりました。

こうして、イタリアは初のアフリカ植民地「エリトリア」を1889年に設立します。

その後もイタリアはエリトリアを拠点に内陸部に侵攻。
ここに立ちふさがったのが、アフリカの大国エチオピア帝国でした。

背景〜エチオピアの事情

一方で、エチオピアはどのような状態だったかというとかなり厳しい状況でした。当時、エチオピアは戦国時代を迎えていました。

その中で抜きん出たテオドロス2世が国家を統一、日本に先んじて近代化に取り組みます。

テオドロス2世
テオドロス2世:この人もなかなかのイケメンですね。
出典:https://ja.wikipedia.org/

しかしながら、アフリカ情勢はそのような悠長なものではありませんでした。出る杭は打たれる。この言葉の通り、テオドロス2世はイギリスとの戦いに破れ、そのショックから自殺してしまいます。

こうした混乱を収集したのが、メネリク2世
実は、彼はソロモン家などとは全く無縁の地方領主の出身。この混乱期に、エリトリアの駐在していた、イタリア駐屯軍の支援を受ける形で、ライバル勢力を一掃。1889年にエチオピアを統一し、皇帝へ即位しました。

こうして、戦いの向けた準備が整います。

イタリアの侵攻

メネリク2世は上記の経緯により、イタリアから多くの武器等の供与を受ける関係にありました。その恩義もあり、当初、メネリク2世はイタリアとウッチャリ条約を締結し、エリトリアの割譲を認めるとともに、イタリアは引き続きメネリク2世の新政権を支援するという内容だった・・・・はずなのです。

翻訳の違いから戦争へ

ところが自体は思わぬ展開へ。

こうした2国間の協定では双方の言語で書かれることが常ですが、ウッチャリ条約におけるイタリア語とアムハラ語の言い回しが異なりました。アムハラ語では、あくまでも対等の内容であったはずが、イタリア語では実質保護国であるという内容が入っています。

このことに対してエチオピアは厳重に抗議。
ですが、イタリアは「すでに諸外国にも通知し今更撤回はできない」と回答。あたかも、一度食事にいっただけで、勝手に彼氏宣言をされたエチオピアはイタリアとの戦いを決意します。

アドワ〜そして戦いへ

したたかなメネリク2世

こうして、メネリク2世率いるエチオピア軍、イタリア軍ともに戦争は不可避な状況へとなりました。

イタリアは遅れた帝国主義国家。
国家統一からまもなく、経済面でも厳しい状況からこの状況を根拠なく楽観。遅れた部族国家相手の戦いなど、現地駐留軍のみで対処可能、と判断し増援を行いませんでした。

一方で、メネリク2世とその妻タイトゥはしたたかに欧州のパワーバランスを分析しています。この新参者のイタリアを心地よく思わない国は数多くあります。イタリアのアフリカ進出を懸念するフランスをけしかけて、大量の銃火器や大砲を購入するなど、ほぼ、装備面でもイタリアと互角の体制を整えます。

イタリア〜開戦へ

こうした状況の中幾度かの小競り合いが両軍で発生します。
イタリアにとっての不幸は、この小競り合いで有利な戦展開を行えてしまったことです。

こうして、イタリア本国では「やっぱ楽勝でしょ」モードになります。

一方で、現地派遣軍オレステ・バラティエリは予想以上のエチオピア軍の士気の高さと装備に危機感を高め、本国に戦争の回避と増援を依頼します。

しかし、本国からの回答は「決戦しろ」。
一説では、メネリク2世はこの展開をも想定して小競り合いでは負けて退却しながら、地理的にエチオピア側に有利なアドワへ誘導したとも言われています。

もしそうなら、孔明もびっくりの軍略家です。

こうしてイタリア軍は、エチオピア軍(しかも主力)が手ぐすね引いて待ち構えているアドワへと進軍します。

アドワの戦い

アドワの戦い

1896年3月1日、エチオピアの古都アスクム近郊のアドワで両軍は激突します。

このときの兵力は、イタリア軍1万8000に対してエチオピア軍は10万とも12万とも言われています。しかも、エチオピア軍の主力8万はライフル銃と軍服を装備した近代歩兵です。

この軍事力の差を前にバラティエリは敗北を察します。

三国志などでも、こうした展開では不利な側が夜襲をしかけるものです。
ところが、相手はメネリク2世です。夜襲も読まれており、万全の体制で反撃されて大きな被害を出します。

こうして、イタリア軍は勝利の目を完全に摘み取られます。

圧倒的な兵力と装備で、勝利を確信したエチオピア軍は猛攻をかけます。最終的には、イタリア陸軍の9500人から1万2000人が戦死・負傷、イタリアに協力していたエリトリア民兵隊も2000人が死ぬか捕らえられて戦いは終わります。

戦いの後、両国はアジスアベバ条約を締結
イタリアは 「エチオピア帝国」 を承認させられます。というよりは、イタリアのフランチェスコ・クリスピ政権は民衆の罵声の中で崩壊。エチオピアとの戦争継続など不可能だったのです。

こうして、アフリカの強国「エチオピア帝国」は国際的な地位を維持したのです。

タイトゥという女傑の存在

また、この戦いの舞台裏にはタイトゥという女傑の存在を忘れてはいけません。

メネリク2世の妻として、常にこの戦いの舞台裏にはこの女性の存在があります。

タイトゥ・エチオピア

出典:http://leonaisabela.theshop.jp/blog/2016/05/18/165914

ウッチャリ条約を破棄する際には交渉の表舞台にも登場します。
アムハラ語とイタリア語の内容の違いを抗議した際には、イタリア側の全権大使は「もう、他の列強諸国にも言っちゃったしカッコつかない」と情けない言い訳をしますが、タイトゥは「我が国の威信に関わることであり、過ちであるのですでに各国に通知したよ」と行動で回避します。

また、アドワの戦いにも自ら参戦し軍を率いるなど女傑っぷりを発揮します。
こうして、タイトゥはメネリクの妻としての存在のみではなく、知性・軍略にも秀でた軍師としても活躍します。

また、エチオピアがアジスアベバに遷都したのは、タイトゥが、

「お肌にいいから温泉が出るところに住みたい」

という女子力をふんだんに発揮したからという説もあるそうです。

私も会社経営を妻にサポートしてもらいながら、日々、なんとかやってきてますが女性の存在というのはすごいもんだと思います。

まとめ

いかがでしたでしょう?
アフリカと言ってもひとくくりにできないことが分かりますよね。

また、エチオピアという国に対して親近感が湧いた方もいるかも知れません。
その後、日本とエチオピアは同じ有色人種の国家として同盟関係を締結することを真剣に考えたこともあるくらい、アフリカとアジアで植民地化を免れた強国として存在しました。

私もこのエントリを書いていて久しぶりに中目黒にあるクイーンシーバーさんに行きたくなりました。

中目黒エチオピア料理:クイーンシーバー
http://queensheba.info/about/jp.html

ハビットマン(大山俊輔)