Ordular! ilk hedefiniz Akdeniz’dir! ileri! 全軍へ告ぐ!諸君の最初の目標は地中海だ!前進せよ!

 
 
こんにちは。大山俊輔です。
今日はオフィスにこもりながら仕事を終えてから、ケマル・パシャ(アタテュルク)のことを書いています。
 
 
別のエントリで書いたように世界史、日本史に登場する人物の中で自分の人生に大きな影響を与えた人が何名かいます。
以前、世界史の登場人物からカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカを紹介しました。ですが、世界史からピックアップするとしたら、私にとって最大の影響を与えたのは間違いなく、今回紹介するケマル・アタテュルクです。
 
 
数多くの世界史、日本史の登場人物の中からあえて選ぶとするとこのケマル大久保利通が私にとってのヒーローとも言えます。
実際、この2人の肖像画は額縁に収められて毎朝私は語りかけています。
 
 
「今日も商売繁盛しますように」って。
ホントは、商売は関係ないのですがこの2人と違って私が人生を注ぐのは事業ですので(笑)。
 
 
そこで今回は私とケマル・アタテュルクについての関わりについてまとめてみました。
 
 

ケマル・パシャ(アタテュルク)とは

高校時代、世界史だった方ならきっとこの顔覚えてる方もいるかもしれません。
 
 
ケマル・アタチュルク
 
 
あ、と思った方はちゃんと世界史好きだった方でしょう。
あるいは、トルコ旅行などに行ったことのある方もご存知かもしれません。
どこに行っても、ケマルの銅像、お札、肖像画がありますから。
 
 
トルコ国旗とケマル・アタチュルク
どれだけ好きやねん?
と思った方もいるかもしれませんが、トルコ国民が彼をここまで敬愛するのは読んでもらえばわかると思います。
 
 
基本、私の視点で何が好きかを書くだけですので、ケマルの生涯を知りたい方はまずはWikipediaを見てみましょう(笑)。
 
 


 
 

ケマル・アタテュルク、何がすごい?

なぜ、私がここまでケマル・アタテュルクに入れ込んでしまうのか。
それは、世界史に登場する普通の偉人がどれか一つ成し遂げただけでもすごいであろうと思われることを一人で、しかも何度も繰り返し行ったからです。
今度、日本ではお札が変わりますが全員を足してもまだ足りないくらい。
まさに今回のタイトルに使いました「チート」という言葉がふさわしいのです。
 
 

ただ、当然そのようなチートになるための対価はありました。
彼は、相当なストレスからかなりの酒豪であり女好きでした。
酒?イスラムなのに?と思う方もいると思いますが、彼にはそれはご愛嬌です(笑)
 
 
また、42歳で遅ばせながら結婚しますがスグに離婚。
彼ほどの英雄にもかかわらず、子供をつくることもなく、遺族はすべて養子です。
実は彼は死亡した戦友の子を中心に、養子が十数名いました。
 
 
彼は人生のすべてを国民国家としてのトルコの独立とトルコ国民の育成に注ぎました。
酒豪とはいえ、アルコール度数45%近いラク酒を一晩でボトル3本開けるような生活により彼の体は蝕まれます。
最後は肝硬変により57歳で没します。
 
 
良くも悪くも英雄とは極端なものです。
 
 
では、彼の凄さについて書いてみましょう。
 
 

その1:世界史上のイケメントップ10に入る

まずは軽いネタから。
英雄はナルシストが多いので身だしなみに気を使う人が多い気がします。
もちろん、毛沢東のように人生で一度も歯を磨かず、周囲もあまりの口臭に困ったような人もいたようですが(笑)
 
 
ケマルといえば世界史の資料集に出てくる顔。
第一次大戦から戦間期あたりに出てくる世界史上の人物といえば、他には英国首相のロイド・ジョージ、アメリカのウィルソン大統領、日本は大隈重信が首相をしていた時期です。

 
 
世界史イケメン対決
 
 
こうして顔を並べてみると、やっぱこの時期の登場人物で圧倒的なイケメンですね。
もちろん、日米英の首脳陣も実績だけ見ればすごいのですが。
 
 

その2: 軍事的天才

まず、彼が世界史にデビューしたきっかけといえば第一次大戦。
まだこのときにはトルコ、という国はありません。
 
 
このとき現在のトルコを主として欧亜にまたがる帝国を統治していたのはオスマン帝国
 
 
小アジアの君侯国としてスタートしたこの国は、オーストリア以南のハンガリーからバルカン半島を主とした東欧南欧、アラビア半島、コーカサス、そしてエジプト、リビア、アルジェリアなどの北アフリカに至る、まさに欧州・亜細亜・阿弗利加3大陸の広大な国土を支配する大帝国となりました。
 
 
これがオスマン帝国の最大版図です。
世界地図の中で数多くの重要なエリアを領土としていることがわかりますね。
オスマン帝国の領土
 
 
ところが、この大帝国も壮麗王とも言われたスレイマン1世の死後、徐々に国力を落としていき、18世紀以降はオーストリア、ロシアなどと攻勢が逆転。欧州側の領土は侵食されギリシャやブルガリアなどのバルカン諸国は独立。第一次大戦に突入したときにはかつての栄光は見る影もない状況でした。
 
 
そんなオスマン帝国に仕える一軍人としてケマルはそのキャリアをスタートしました。
 
 
そして、彼の仕えたオスマン帝国はドイツ、オーストリア(あとオマケでブルガリア)とともに中央同盟国の一員として参戦します。
 
 
この頃のオスマン帝国のニックネームは”Sick man of Europe”
日本語でいうと、「ヨーロッパの瀕死の病人」
 
 
とはいえ、未だオスマン帝国の領土には連合国の一員であるロシアとの連絡にとって重要なダーダネルス・ボスポラス海峡があります。
また、戦争前後からはじまったモータリゼーションに際して重要な石油を産出する中東諸国や、衰退期に入った大英帝国にとってはスポンサーとして重要なユダヤ財閥にとっても重要な聖地イェルサレムを領しています。
 
 
こうして、連合国側のイギリスとフランスは中央同盟国の中で最弱と思われたオスマン帝国に攻め込みます。
これが有名な「ガリポリの戦い」です。
 
 
結果はまさかのオスマン側の勝利。
その時の指揮官がケマルでした。
 
 
こうして救国の英雄となったケマルはその後、コーカサス戦線、シリアなど転戦しますがこれらの戦いでも連合国に引けを取らない戦いを展開しますが残念ながら、帝国は敗北。連合国に降伏します。
 
 
オスマン帝国降伏後はじまったギリシア・英国による侵略をキッカケに始まった希土戦争においても、サカリア川の戦い、イズミール攻略など抜群の軍略で勝利を重ねます。
彼の凄さは戦機の読みの絶妙さ。
 
 
圧倒的優位な戦力を持つ敵勢力との戦いでの心理戦では相手の気持ちの移り変わりを見逃さず勝利につなげます。
このあたりは以前紹介したハンニバルと重なるところもあります。
 
 
こうして、「瀕死の病人」だったオスマン帝国が解体しその中から国民国家として若き新生トルコ共和国を誕生させたのです。
まさに彼の軍事的天才なくしてトルコは滅亡を免れることはなかったことでしょう。
 
 

その3: 宗教改革と産業革命と明治維新を同時に行った

もし、ケマルが軍人として人生を終えていたらここまで私も彼に惚れ込むことはなかったでしょう。
ですが、ケマルが真価を発揮するのは、トルコ共和国が誕生し初代大統領となってからです。
 
 
トルコは第一次大戦に入る前には、イタリアとの伊土戦争、そして、第一次/第二次バルカン戦争を戦っています。
そして、第一次大戦国では敗戦国となり、連合国に占領されます。そして、占領下でギリシャとの希土戦争がはじまります。最終的にイズミールを解放するまでの間に小アジア西部の諸都市はこうした戦争で破壊されつくしました。
 
 
新生トルコ共和国のスタートはこうした破滅的状況からはじまったのです。
 
 
そんな状況であったにもかかわらず彼は数多くのことを行い、そして、実際に成果を出しました。
 
 

スルタン・カリフ制の廃止

まずは、600年以上に渡り続いたオスマン帝国のスルタン(帝位)の廃止。
他の中央同盟諸国でもある、ドイツ、オーストリア、ブルガリアでも皇帝は亡命し帝政がなくなりましたが、トルコにおいてはオスマン家は連合国側と手打ちをしていたため、帝位存続の可能性がありました。ケマルはこうした背景を実力で廃止したのです。
オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世はマルタ島に亡命します。
 
 
次に行ったことはカリフ制の廃止
実は、この事のほうがイスラム圏では大きなインパクトがあったのではと思います。
カリフとは全イスラム教徒にとっての最高権威者。ローマ教皇のようなものです。
 
 
オスマン帝国がエジプトのマムルーク朝を滅ぼした際、そこに亡命していたアッバース朝のカリフをから位を譲り受けて以来、オスマン帝国スルタン(皇帝)は全イスラムのカリフを兼ねていました。
これはいわば、ローマ皇帝とローマ教皇が一体であったようなもの。
 
 
スルタンを廃止したのみならず、ケマルはこのカリフの位を廃止します。
この事のインパクトは、ローマ教皇がなくなるのと同じことを意味します。そう考えると宗教改革よりはるかに大変なインパクトがトルコのみならず、全イスラム諸国(シーア派の国を除く)にあったことでしょう。
 
 

産業革命

また、こうした宗教改革を行いトルコは世俗化していくのみならず、産業についても軽工業を中心に開発独裁という形で発展させます。
希土戦争により、トルコからはかつて商業の担い手であったギリシャ人やアルメニア人の多くが国を去りました。
こうして残ったのは、主に農民であるトルコ人。
 
 
かつてオスマン帝国は国内に軍事工場がないため武器砲弾などの多くを海外からの輸入に頼りながら戦争を行っていました。
こうした背景からケマルは工業の重要性にいち早く注目していたのです。
 
 
その発展のさせかたは発展途上国に多い開発独裁的な側面はありましたがトルコはこうして中東地域ではもっとも工業の発展した国になるのです。
この流れは、今に引き継がれており、ヨーロッパのファッションブランドの服などはネームタグを見るとトルコ製が多いですよね。
 
 

明治維新

最後に明治維新。
明治維新のエッセンスといえば「富国強兵」のスローガンが有名ですが、その根底にあるのは国民国家を担う「国民」の育成です。
 
 
日本は江戸時代を通じて高い教育水準を保持して世界有数の識字率を誇る教育大国でした。
ただし、260年の鎖国の間に起こった近代科学や思想の潮流に取り残されたため、これを急ピッチでキャッチアップしたわけです。
 
 
一方、トルコではそもそも民衆の識字率は10%あるかないかだったと言われています。
それもそのはず。
 
 
本来トルコ系の民族といえば、突厥に代表されるウラルアルタイ語族の民族です。
つまり、言語的にはモンゴル語に近い言語。
 
 
ですが、騎馬民族で西進して行き着いたアナトリア(小アジア)に定着し、イスラム化しオスマン帝国を建国してからはペルシャ語やアラビア語の語彙を取り入れたごちゃまぜの言語をオスマン語として支配階級はつかいます。
今で言うところのピジン語に近かったのではないでしょうか。そして、書き言葉はアラビア語。
これでは、教育しにくいことこの上ありませんね。
 
 
そこで大統領のケマルは次に先生になっちゃいます
まずは、トルコ語の整備と書き言葉としてのトルコ語を親和性がアラビア文字よりましであったアルファベットにします。
そして、自ら全国行脚を行いアルファベットを流布します。
 
 
この時の写真です。
かなり年をとってからのものですので、髪の毛が少しさびしくなってますね(笑)。
アルファベットを伝えるケマル
 
 
軍人としてすごかったのみならず、政治家としても成功し、そして、教育者としても大きな貢献をしたわけです。
 
 

その4: イギリスの内閣を2回に渡り倒閣し、チャーチルを育てた

ウィンストン・チャーチル
おまけですが、このチートぶりにもっともやられたのは間違いなくイギリスでしょう。
まず、ガリポリの戦いではまさかの敗北。
 
 
イギリス国民の多くは「瀕死の病人相手の戦いだし楽勝でしょ」。
そう思って臨んだ戦いで、まさかの大敗北。
この責任をとってハーバート・アスキス首相が辞任、ロイド・ジョージ内閣が誕生。
そして、この作戦の立案者であったウィンストン・チャーチルは失脚します。
 
 
そして続く祖国解放戦争(希土戦争)によりケマル率いるトルコの優勢は確定的となり、オスマン帝国と結ばれたセーブル条約は破棄され新たにローザンヌ条約が締結されます。
これにより、イギリスの野望は頓挫し、続くロイド・ジョージも辞任します。そして、そのとばっちりでロイド・ジョージ内閣で植民地相を務めていたチャーチルは再びポジションを失いました。
 
 
こうして、ケマルは間接的ではありますがイギリスの内閣を2回も倒閣してしまったことになります。
特にチャーチルは2度も大臣の座をケマルに奪われることになります。
 
 
おそらくこの苦労がキッカケとして、第二次大戦における粘り腰の強い男、チャーチルに育ったのでしょう。
ケマルにここまでやられてなかったら、ヒトラーとも対峙できなかったかもしれませんし、あのピースサインもなかったことでしょう。
 
 
直接会うことはない師弟関係。
これは、ハンニバル・バルカを敵ながら相手を自分の師したローマのスキピオ・アフリカヌスの関係と似ていますね。
ハンニバルとスキピオ
 
 
もし、ケマルが第二次大戦まで生きていたら、
 
「チャーチルはワシが育てた」
 
 
なんて言っていたかもしれません(笑)。 
 

ケマル・アタテュルク型の英雄はもう誕生しない?

いかがでしたでしょう。
本当に、これ一人の人間の業績なの?と疑ってしまうようなことを本当に一人で行ってしまったのがケマル・アタテュルクです。
これが私の彼を尊敬する所以です。
 
 
では、このようなタイプの英雄が今後誕生する可能性はあるのでしょうか?
 
 
これは難しいでしょうね。
今の時代はいろいろ国境紛争やテロといった問題は残ってはいますが、このような祖国存亡の危機になることは今の国際政治アーキテクチャではなかなかないことでしょう。
あるとすると、どこかの国が突然今の国際秩序に対して挑戦をしてそれに成功し、世界が再び戦乱の時代に突入したときでしょうが、そこまでのことは当面はあまり考えられません。
 
 
ケマルのようなタイプの英雄はあくまでも祖国が本当の危機に瀕した時に登場するのであって、平時には活躍の場がありません。
三国志の主人公でもある曹操が「治世の能臣、乱世の奸雄」といわれたのは有名な話ですが、ケマルはおそらく治世には全く居場所がなかったのではないでしょうか。
 
 
私はベンチャー企業の経営者ですので歴史書以外にも、ベン・ホロウィッツの『Hard Things』はじめ起業家の大変な話を聞いたり読んだりして共感しますが、やはり、彼のように祖国の滅亡か滅亡を防ぐかといった話と比べるとスケールはどうしても劣ります。ケマルのような人物が今から100年前に活躍していたというのは信じられない話ですが、それくらい、世界はこの2つの大戦を通じて戦争を防ぐ仕組みを構築できるよになってきたということなのでしょう。
 
 
今日もケマルの肖像画を見てお参りしながら仕事をがんばります!

カテゴリー: 歴史オタク