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ハンニバル・バルカってどんな人!?孤高の名将、戦術の天才と言われた男の生涯

ハンニバルのアルプス超え

ハンニバル・バルカという人をご存知でしょうか?

ハンニバルといえば映画『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターのイメージしかないかもしれません。しかし、本当のハンニバルは全く別人です。単語「ハンニバル」とは、ローマ(共和政ローマ)を恐怖のどん底に落としいればカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカのことなんです。

大山俊輔

本業は英会話スクール運営会社の経営ですが、6歳の頃には世界史オタクに。今も、知り合いと雑談すればハンニバルの名前が出ないことがないほどのポエニ戦争、ハンニバル好き。毎年8月2日はカンナエの戦勝記念日を一人祝ってます(笑)。

紀元前247年〜紀元前183年の人物ということで、時代的には中国で言うと秦の始皇帝の統一(紀元前221年)やその後の項羽と劉邦の戦っていた楚漢戦争の時代と重なります。

Hannibal erat ad portas.(ハンニバル・エラト・アド・ポルタース)

この言葉を知ってたら相当な世界史オタク。

ラテン語を直訳すると「門にハンニバルがいた」。
意訳すると「危険=迫っていた」という意味だそうです。

この記事ではハンニバル・バルカとはどのような人なの!?ということをテーマに世界史が苦手だった方でも、如何にハンニバルがすごい人なのか。そして、後世に語り継がれたカンナエの戦い始め、その戦術の何が凄まじいのかについて解説しています。

私個人的に漫画『アド・アストラ』のハンニバルを真似た髪型にしてしまうくらいの、ハンニバル崇拝者ですのでかなり独善的なハンニバル評であることをご了承ください(笑)。

ハンニバルとはどのような人

漫画アド・アストラのハンニバル漫画『アド・アストラ』におけるカンナエの戦い後のシーン

誰でも知っているハンニバル・バルカの登場する場面

ハンニバルのアルプス超えハンニバルのアルプス越え

多くの人にとってハンニバル?
誰それ?

というところでしょうが、私がしっかりと覚えているのがこの絵です。

これは、高校の教科書(山川の世界史資料集)に登場する絵ですが有名なハンニバルのアルプス越えの図です。

6万名近い兵、37頭の戦象を連れて冬のアルプスを踏破してイタリア半島に攻め込むというある種、狂気を彼は実行に移しました。そして、実に半数の兵を無事イタリアまで連れていき、ローマへの殴り込みをかけることに成功しました。

カルタゴとは?

それでは、少しだけ、ハンニバル・バルカという人がいたカルタゴという国を見てみることにしましょう。カルタゴは地中海は北アフリカ、今のチュニジアを中心に栄えたフェニキア人の国です。

第一次ポエニ戦争時のローマ・カルタゴ領第一次ポエニ戦争当時のカルタゴ・ローマの領土

今の国で言うと、チュニジアを中心に、リビアやアルジェリア、モロッコの沿岸部、シチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島、スペイン南部を支配した国。そして、地中海の向かいにはちょうどローマ(当時は共和制)がイタリア半島をほぼ統一し、その勢力をシチリアに伸ばし始めてきていた時期です。

シチリア島の取り合いが主たる戦争開戦の原因となったのが第一次ポエニ戦争。この戦いで、カルタゴは屈辱の敗北を喫します。

この戦いでシチリアの権益を失ったカルタゴは、失地の権益を補うべく、イベリア半島(主にスペイン)の経営に乗り出しました。この時に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカが作った町の一つがバルチーノ(現バルセロナ)やカルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)です。

ちなみに、サッカーのFCバルセロナは愛称がバルサだが、これはバルカ家の”Barça”が語源です。

FCバルサ

ポエニ戦争についての詳しい考察は、「ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!」の記事をご参照ください。

ポエニ戦争とは? | ローマVSカルタゴの地中海の覇権を巡っての戦いをわかりやすく解説!

ハンニバル、いよいよスペインを進発

第一次ポエニ戦争でカルタゴは屈辱を喫しましたが、父ハミルカルの跡を継いだハンニバル・バルカは雪辱を晴らすべく立ち上がります。編成した兵力は、当初、歩兵90,000人、騎兵12,000人、そして、戦象37頭。この大軍を率いてカルタゴ・ノヴァを出発したと言われます。

大山俊輔

ちなみに、ノヴァはラテン語で「新しい」という意味です。カルタゴ本国に次ぐ新しい領地を作ったことを象徴する名前ですね。英会話スクールのNovaは多分このラテン語から取ったのかな?と思います。

当初の戦争は、イベリア半島内にあったローマの同盟都市であるサグントゥム攻略でした。
しかし、それはローマを挑発するための呼び水に過ぎません。サグントゥムを攻略した後、ハンニバルは、本国の防備の兵を戻して、歩兵50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭を連れてローマに向かって進軍しました。

ハンニバルのどこがスゴイ?

その1 – リーダーシップ

普通に考えて、この行軍は少し軍事が分かる人にすれば狂気です。

まず、兵士の数。60,000人の兵を率いるだけでも大変なことですよね。
数で見て、ちょうど千代田区民とほぼおなじ規模。私は100人位の会社の社長をやってますが、毎日毎日ひーひーやってます(笑)。

しかも、すごいのはローマと違ってこの兵たちの出自です。

主力は北アフリカ出身のリビア兵、これは主に歩兵です。その次に多かった歩兵はイベリア半島出身者、今で言うスペイン人ですね。それ意外にも、傭兵でアフリカ各地の兵やバレアレス諸島出身者も参加していました。

そして、騎兵については半分がアフリカ出身のヌミディア騎兵、そして、半分がイベリア騎兵。更にはおまけに象さんまでついてきています(笑)。

常識的に考えて、こんなバラバラな兵を一つにまとめるのはどれほどのリーダーシップが必要なのだろうと思いますよね。会社経営をやってると、これが如何にクレージーなことかが分かります。

この雑多な軍にイタリア上陸後は野暮なガリア人まで加わります。この軍隊を率いてほぼ単一民族で構成されたローマと10年以上に渡り戦ったというのは、彼にそうとうなリーダーシップがなければ出来ないことでしょう。

その2 – 統率力

もう一つ、ハンニバルを語る上で外せないのが統率力です。

ハンニバル軍の構成は傭兵の寄せ集めです。しかも、出身地もバラバラ、言語もバラバラという軍団を率いて強敵ローマと戦わなければいけないのです。

口で言うは易し、行うは難しという言葉があります。

実際、私もスタッフの7割が外国人の組織を経営してますが、ハッキリ言って大変です。一応の社内公用語は業務レベルは英語ですが、当然ながらビジネスは日本でやってるわけで、経営判断を行うときの言語はすべて日本語になります。これだけでも、結構無理ゲーです。

一方、ハンニバル軍は言語傾倒もバラバラ。

ハンニバルが話していたであろうカルタゴはフェニキア語、つまり、セム語系統の言語なのでアラビア語やユダヤ語に近いと思われます。一方、彼が取り込んだスペイン、ガリアの兵たちの多くは、インド・ヨーロッパ語族の言語だろうから、まず、通じません。

相当コミュニケーションは大変だったのではないかと思います。

ハンニバル軍は、イタリア半島に侵入後、イタリア半島北部でローマに反抗する異民族(ガリア人)を糾合し、自軍に加えてます。もうむちゃくちゃですね。

かたやローマは・・・・

一方で、ローマはカルタゴ軍とは逆に統一の取れた軍隊でした。

第二次ポエニ戦争までに、イタリア半島は北部ガリア人居住地を除くとほぼ統一されて言語や習慣などもある程度共有した民族になっています。ローマや同盟市から徴兵された軍隊は、ほぼ、まとまりを持った精強な軍隊だったと言えるでしょう。

どちらかと言うと、カルタゴ軍は傭兵主体ということもあり、今で言うと外資系企業やベンチャー企業。国籍もバラバラ、雇用形態も中途採用主体で、社員だけでではなく業務委託のフリーランスなどもいるバラバラの組織のイメージですね。一方、ローマは新卒一括採用の伝統的日本企業。しかも、今のような制度疲労激しい日本の大企業ではなく、高度経済成長期のそれです。経営者も皆創業経営者で力満ち足りていて、中間管理職から現場まで統率の取れたチート時期の日本企業のイメージです。

こうした条件からみれば、基本、ハンニバル軍がローマに勝つ見込みはなさそうですよね。

しかし、この男は何度とそのハンディキャップを覆すのです。

その3 – 不可能を可能とする戦術眼

このように、圧倒的にローマ有利な状態に対して、ハンニバルは15年に渡りイタリア半島を席巻しました。

各地からの寄せ集め軍隊であるハンニバル軍が戦線を維持できたのはまさに、ハンニバルが不可能を可能としてきたから。それが、アルプス越えであり、カンナエの戦いといったマスターピースだったのです。

「この人ならあのチートのローマにまた一杯食わせてくれるだろう」

こうした実績が彼の軍隊をつなぎとめたのです。

まさに、ビジョナリー・カンパニーに登場するBHAGを何度と実現してきた男。それが、ハンニバルです。

ハンニバル・バルカが後世に語り継がれるワケ

1 – アルプス越え

多数の軍勢を率いてアルプス越えを世界史上敢行したのは世界史上、2名しかいません。
1人がハンニバル、そして、もう1人がかのナポレオンです。

ナポレオンのアルプス越えこの有名な絵も彼の対オーストリア戦に際してのアルプス越えを描いたものだそうです

ナポレオンのアルプス越えは1800年。
対してハンニバルは紀元前200年代。まだ、ヨーロッパの地理も明らかになっていない時代に、しかも象を伴い5万人近い兵隊が未踏の地を越えたことは驚愕に値します。

しかも、当時、アルプスには山岳ガリア人など敵対勢力もいたようで、この山越えでかなりの兵が離脱し、そして象さんもかなり死んでしまったようです。

私もいつか死ぬまでに象を伴ったアルプス越えを再現してみたいと思っていろいろ調べてみたが調べるほどヤバイ(笑)。
いかにあの時代にこんな無謀をしたことが凄いかがわかりました。

数万人の部下を伴い、馴れぬ土地で蛮族の攻撃を受けながらイタリア北部に到達できたハンニバル軍は当初出立したときの半分前後、26,000人程度だったといわれています。

いかに壮絶な行軍だったかがわかると同時に、半分の人間が彼についてきたことは驚愕に値します。

2 – カンナエの戦いに至るまでの大勝利

行軍するだけでも凄い話ですが、彼の目的は別に物見遊山でイタリアに来たわけではありません。
彼の父、ハミルカルの遺言に従ってローマを滅ぼすためにこれだけの犠牲を伴ってイタリア入りしたのです。

しかし、アルプス越えで兵は半分に。
象もほとんどいなくなり憔悴しきった兵たちを率いて彼には次のミッションがありました。

それは、いち早くローマ軍の先遣隊を打ち破り現地ガリア人を味方につけること。

つまり、敵のホームグラウンドでボロボロの兵を率いて敵を破って、しかも、敵地内から反ローマのガリア人を徴兵するということです。
普通に考えてありえないミッションですが、彼は黙々とやり遂げます。

カルタゴ軍、アルプス越えてイタリア北部に現るの報にローマ元老院はショック受けます。
2個軍団をもって迎撃にあたったがティキヌスの戦いでローマは敗北。さらに、トレビアの戦いでローマ軍の増援を打ち破る(トレビアの戦い)。
この勝利で、中立的な立場だった現地の反ローマ勢力が続々カルタゴ軍に参加。一気に50,000名まで兵が増えます。

その後、さらなるローマの増援をトラシメヌス湖畔の戦いで打ち破ったカルタゴ軍。
いよいよローマは国家存亡の危機に際して、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出します。

ファビウス
個人的にローマ側の人間で好きな人間の一人がこのファビウス。

実に、のらりくらりとしたたかで戦いにくいタイプの人間。持久戦でハンニバルを苦しめました。しかし、この戦略は不人気で、短期決戦を焦るローマ元老院と市民たちのプレッシャーからついにローマは実に80,000名近い兵をハンニバル討伐に投入。

しかし、これこそがハンニバルの待ち望んでいたシナリオでした。

3 – カンナエの戦いにおける圧倒的勝利

ハンニバルは続くカンナエの戦いでローマ軍を壊滅させます。
ローマは、死傷60,000名、捕虜10,000名という洒落にならない天文学的被害をこうむったうえに、更に指揮官レベルでも執政官パウルス、その他、80名の元老院議員が戦死します。

イメージで言えば、国会議員の2割近くが一回の戦いで戦場で戦死してしまうという絶望的状況に陥ります。

こうして、ハンニバルの名声は地中海世界にとどろきます。

MEMO
少数の兵が、自軍の倍近くの兵を平地での戦いで包囲殲滅する。この奇跡的な包囲殲滅戦はいまだ世界史でも語り継がれる戦いで、その後、世界各国の軍人がその真似をしようとして失敗してきました。ハンニバル並みの天才以外はやっちゃいけません(笑)。

なお、このカンナエの戦いの詳しい解説については「カンナエの戦いを徹底解説 ー【図解つき】戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲」の記事で詳しくまとめていますのであわせてお読みくださいね。

カンナエの戦いを徹底解説 ー【図解つき】戦術の天才ハンニバルの集大成とも言える芸術的包囲

ハンニバル・バルカの惜しかったこと – 天才的戦術家の限界

さて、このコーナーではハンニバルが天才的戦術家でありながら、最終的にはローマに敗北し悲劇のヒーロー、ローマの当て馬として終えてしまった惜しい点をまとめていきます。

カンナエの戦いでその名を大いに高めたハンニバル。
この敗戦により、ハンニバルは当初の戦略通りローマの同盟都市の引き剥がしに取り掛かります。

その工作に応じて、南イタリアの都市カプアやシチリア島のシラクサなどがローマを離反、カルタゴ陣営に属することを決定するなど旗向きは明らかにカルタゴ有利に進むかに見えました。

しかし、実は、その後の展開は違いました。

結果的にハンニバルは10年以上に渡りイタリア半島南部に閉じ込められてしまいます。
そして、その間にローマは逆にハンニバルの本拠地であるスペインを奪取、最後には本国であるカルタゴに攻め込むことになります。

こうして、本国のピンチにイタリアの占領地を放棄し帰還したハンニバル軍とローマの若き名将スキピオ・アフリカヌスが対峙したのが「ザマの戦い」。ハンニバル率いるカルタゴ軍は大敗し、ローマと講和を結びます。第二次ポエニ戦争の終了です。

あれほどの軍事的勝利を収めたハンニバルほどの天才が、なぜ、判断をミスらせてローマの反撃を許してしまったのでしょうか。
これこそが自分がハンニバルをリーダーとして尊敬するとともに、反面教師とする理由でもあります。

では、その理由とはなんだったのでしょうか?

1 – 勝利を生かせなかった

一番のミスはカンナエの大勝利を活かすことができなかったことです。

カンナエの大勝利によって本来は敵の本拠地ローマに進軍すべきだったハンニバルはあえて降伏勧告の使者を送りはしたもののローマを攻撃しませんでした。ハンニバルの理由は明快です。

ハンニバル軍は多国籍の兵から成り立ってました。一方で、ローマは規律ある同質的な軍隊で工兵部隊も充実しています。ハンニバル軍は平地での野戦によってこのハンディキャプを何度と覆してきましたが、攻城兵器を持たない軍であったためローマに攻め込みたくても敵地での長期包囲戦は、援軍が駆けつければ今度は自軍が包囲されてしまう。

ハンニバルのような合理主義者からすれば、ローマを包囲しないのは当然の判断だったことでしょう。

しかし、勝利の女神は何度も微笑まぬもの。
ワールドカップ、野球などスポーツの試合を見ていてもこのことは常々感じますが物事にはタイミングがあります。

ハンニバルの部下でヌミディア騎兵を率いていたマハルバルはこう言います。

“Vincere scis, Hannibal; victoria uti nescis” – 英訳 “So the gods have not blessed one man with every gift. You know how to win a victory, Hannibal, but not how to use it.”
「神は一人の人間にすべての才を与えなかった。ハンニバルよ、あなたは敵に勝利する方法を知っているが、その勝利を用いる方法を知らない。」

この言葉はある意味、無責任、蛮勇にも聞こえる発言です。

しかし、ベンチャー企業で大きくなった会社の多くは一見リスキーな意思決定を何度もくぐり抜けて大企業になっています。一見、不合理に見えるリスクテイクが実は最もリスクが低いということは往々にしてあります。織田信長の桶狭間の戦いにおける意思決定などは、やけっぱちではなく最も合理的な判断の一つだと言えるでしょう。

桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説! 桶狭間の戦いの真実 | 戦いの場所、勝因、その他数多くの謎をわかりやすく徹底解説!

つまり、リーダーには時と場合によっては高転びのリスクをとってでも動かないとより大きな戦機を見逃ことがあるということです。

この話で思い出すのが三国志。
魏の曹操が漢中の張魯を下したとき、曹軍の軍師で若き日の司馬懿仲達は曹操に蜀を攻めることを進言しました。

この時、蜀の国はにっくき劉備が占領してまだ間もない時期。
統治も確立しておらず、今なら漢中攻略で軍の勢いもあるので攻略なるかも。
これが司馬懿の思いだったのでしょう。しかし、そうそうはこう言います。

「隴を得て蜀を望む(望蜀)」

こうして、蜀攻略はなりませんでした。
もし、漢中攻略の余勢を駆って侵攻していれば歴史はかなり違うものになっていたかもしれませんね。

2 – ローマを過小評価し、情けをかけてしまった

これほどの大勝利、そして、大虐殺といってもおかしくないローマ兵を殺したハンニバルですが、彼の言行をみていると教養あふれる人物であることが伺えます。敵国であるローマの政治体制に精通し、そして、ローマ人の気質もよく理解してました。だからこそ、彼の南イタリア占領は10年以上に渡りますが、予想以上に反乱などは起きることもなかったようです。

自分はあくまで武人、敵軍は会戦で叩きのめすが完全に滅亡させる気はない。
これがハンニバルの本音だったのかもしれません。

一方でローマはハンニバルの意図とは真逆に降伏する気は一切ありませんでした。
カンナエ後、ローマはなりふり構わぬ軍の再建を行います。

募兵の年齢を下げると同時にそれでも足りない部分は犯罪者、奴隷まで兵に組み込みます。
そして、ローマから離反した同盟都市は見せしめに徹底的に叩き潰します。一方、ハンニバル軍との直接の野戦は避けて、分遣隊などハンニバルの手元を離れた軍勢とだけ小競り合いを続けて、離反都市を奪還していきます。

普通ならカンナエ規模の敗北があれば国家崩壊となるものですが、ローマは敗北をきっかけに強くなりました。
そして、ハンニバルはカンナエの奇跡をモノにできずに、無為にイタリアで10年以上足止めを食っているうちに、本拠地のヒスパニアを奪われます。

この、中途半端な優しさがハンニバルの惜しいところでもあります。

3 – 人の妬みを侮ってしまった

最後にハンニバルが惜しいと思うのは、人の妬みに対してのウブとも言える純粋さ。

妬みとはいつの時代もある最も恐ろしい感情。
特に男の嫉妬は厄介で、まさに半沢直樹の世界は大昔から一緒です(笑)。

ハンニバルほどの天才軍人で、戦地での心理戦では神がかりな男が仲間であるはずのカルタゴ母国の人間たちの嫉妬については、ウブすぎるほど理解に乏しかったのは不思議なものです。

カンナエの大勝利の後、ハンニバルは弟のマゴをカルタゴ本国に送り増援を依頼します。

しかし残念ながらこの依頼は叶えられることありませんでした。
ハンニバルの人気がこれ以上高まることを恐れる政敵によってこの援軍はイタリアではなくスペイン防衛に送られてしまいました。

では、なぜ、このようなことが起きたのか?

この最大の理由はハンニバルの純粋さではないかと思います。
確かに戦いの世界では、開戦前の根回しなど策略に長けたこの男も、男の嫉妬というものの恐ろしさは知らなかったのではないでしょうか。
これだけの大勝利をした人間を妬まない政敵がいないわけはありません。実際、ハンニバルの父ハミルカルも第一次ポエニ戦争時、本国の政敵に足を引っ張られて敗北しています。

ローマ陥落のチャンスを逃し、膠着状態に陥ったイタリア戦線に10年以上はりつけられ動くに動けないまま歳を重ねていくハンニバル。
その後、カルタゴ本国がローマ軍が攻め込まれて、その援軍としてせっかく占領していた南イタリアまで放棄。そして、ザマの戦いで宿敵、スキピオ・アフリカヌスに敗北することでハンニバル神話は終わることになりました。

ここで、同じウブさを想起するのは三国志に登場する蜀の諸葛亮孔明。

彼も天才軍師であり、劉備の死後、その遺訓を受けて頼りない劉禅を支えつつ魏国を滅ぼし漢王朝の再興を目指して北伐を行います。しかし、何度と政敵の邪魔にあって軍を撤退させるなどしてきました。一方、孔明のライバルの魏の司馬懿仲達も同じく嫉妬から一度は左遷されたものの、その後はしたたかに生き残り最後は彼の子孫が魏王朝を簒奪、普を建国します。

まとめ

いかがでしたか?

ハンニバルという人が戦術家としてすごいのは言うまでもないですが、最後の勝利をつかめなかった惜しいヒーローでもあります。
その理由が、彼の優しさ、ウブさ、そして、天才ゆえの蛮勇の欠如と言った彼の長所の裏返しでもあるのです。

いつの時代も男たちの嫉妬に英雄は泣かされるのが運命。
敵ばかりでなく味方の心情まで理解して戦うことの大事さをこのハンニバルの教訓は教えてくれますね。

大山俊輔