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オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(神吉敬三訳)
 
 

私は私と私の環境である / I am I plus my circumstances.

 
 
 
 

スペインの没落期に登場した天才たち

 
 
こんにちは。大山俊輔です。
今日はホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』について書いてみます。
 
 
2回のエントリに分けようかと思いましたが今回は長いです。すみません!
 
 
実は自分はスペインという国が大好きです。
一にニにスペインと言えば食べ物ですが、歴史も大好きです。
 
 
以前紹介した、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカの軌跡でもそのスタート地点はイベリア半島です。スペインはポエニ戦争後、ローマの属領となりその後ゲルマン人(西ゴート王国)、そして、イスラムによる支配を受けます。そして、その後15世紀のレコンキスタ(国土回復運動)へ。そして、フェリペ二世時代の全盛期。このあたりまでは、世界史の教科書でもスペインの名前がよく出てきます。
 
 
ところが18世紀以降、スペインは没落モードに入ります。
この没落は、中世~近世にかけてピークアウトしたもう一つの強国、オスマン帝国の歴史ともかぶります。自分は経営者としていかに創業期から次の世代へのバトンタッチをするかを常に考えています。ですので、こうした、長期停滞を経験した国の衰退史にも心を寄せてしまうわけです。
 
 
個人的には『ビジョナリー・カンパニー3 衰退の五段階』がおすすめです。

 
 
さて、今日紹介するオルテガ・イ・ガセットの生まれた時代は近代スペインの危機とも呼ばれた時代。世界史などの教科書ではスペインは文化史でたま~に名前が出てくるだけの時期です。
 
 
そして長らく世界史から名前の出ないスペインが久しぶりに登場するのは1898年の米西戦争。新興勢力のアメリカとの戦争です。
 
 
そしてスペインは見事に完敗します。
米西戦争を通じて、スペインは最後の植民地だったキューバとフィリピンを失います。かつて日の沈まぬ帝国とまで言われたスペインは名実ともに西欧の2等国に転落します。
 
 
ところが歴史とは面白いもので、こういう激動の時に偉大な人材を排出します。
スペインもその例外ではありません。
 
 
あえて、私目線で名前をあげるとすると3人。
 
 
ひとりめは、脳科学から。
以前紹介したラモン・イ・カハール(Santiago Ramón y Cajal, 1852年5月1日 – 1934年10月17日)。
ラモン・イ・カハール
 
 
以前紹介した記事はこちら。
 

 
 
ふたりめは、哲学界で今日紹介するオルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset, 1883年5月9日 – 1955年10月18日)。
オルテガ・イ・ガセット
 
 
最後のひとりは軍人であり独裁者のフランコ将軍(Francisco Franco y Bahamonde、1892年12月4日 – 1975年11月20日)。
フランコ将軍
 
 
みな、名前に”y”が入るのはスペイン語で”y”が英語の”and”。
つまり、父方と母方の姓をつけるためかと思います。3人のほうがゴロが良かったので3人にしましたが、もうひとり同時代でスペインが生み出した偉人がいます。それは、誰もが知るパブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881年10月25日 – 1973年4月8日)でしょうか。
 
 
特にこのブログのテーマとしては、ラモン・イ・カハールオルテガ・イ・ガセットが重要キャラです。
 
 
スペイン没落期に登場したこの2人の鬼才は自分の人生において多大な影響を与えた人物です。
なかでも、今日紹介するオルテガについては、先日他界された思想家の西部邁氏がその著書で何度か引用したことでその名前を知っている方も多いかもしれません。
 
 
オルテガの考察については、上記西部邁氏や内田樹氏など著名な方たちが独自の展開をされています。ただ、オルテガを紹介する人の多くがアカデミックな世界に身を置く方たちです。ところが、この本は別にそんなアカデミックな世界にいる人より、日々、葛藤しながら頑張っている人ほど読んでほしい本だと思います。
 
 
そこで、今回は、私が恐れ多くもとはなりますが実業の世界(特にベンチャー業界)にいる人間として、哲学とかあまり知らない自分自身の視点から彼の代表的な著書である『大衆の反逆』についてレビューを書いてみました。
 
 
私自身彼の著書は会社の経営が厳しい時、意思決定に悩む時に非常に勇気づけられました。
きっと、同じように考える経営者の方はこの本を通じて多くのことを学ぶことでしょう。
 
 

『大衆の反逆』が好きなわけ

本著の特徴は、まずなんと言っても、美しい文体です。
書いている文章は近代社会に対してかなり手厳しくボロクソなところもあります(笑)。
ですが、何故か読んでいて嫌な感じがしないのがすばらしい。
 
 
哲学というと、つい古代ギリシャやドイツ観念論といった形から入ってしまいがちです。
もちろん、このオルテガもその一系譜のなかに数えられるのでしょう。ただ、私のように会社のことで日々忙しい人間は別に哲学を学びたいと思ってるのではありません。哲学を通じて、自分の人生や事業にどのようにフィードバックを与えるかが大事だと思っています。
 
 
ですので、プラトンの『国家』やちょっとかっこつけてマルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』なんかを読んでもやはり時代が違いすぎて、なかなか頭に入ってきません。
 
 
それに対して、このオルテガの著書は哲学にそこまで傾倒していない人にも読みやすい。
恐らく、仕事や人生に真っ直ぐな人悪~い脂汗をかくような経験を何度かしたことがある人は、この本に共感すると思います。
 
 
なぜなら、オルテガが本来、この本で訴えたかったことは「努力する生」だからです。
 
 
ところが、気をつけないと本書を都合よく誤読してしまう人が多いのもこの本の持っている魔力です。その影響は左も右も保守もリベラルも関係ありません。このあたりは後で述べます。
 
 
時代背景も1930年台の戦間期(第一次大戦と第二次大戦の間)
第一次大戦が終わって世の中は大恐慌など大変な時期ですが、世界が戦のないつかの間の平和を楽しんでいる時期です。
 
 
そして、産業革命に始まった技術発展は戦争を通じて更に発展し、人々の生活を豊かにしていきます。車が大量生産を通じて普及し、飛行機がこの時代から移動手段として登場します。スマフォもない時代ではあるけど、概ね今の私達と同じような生活を送りはじめていたといえるでしょう。
 
 
文体の美しさを私達日本人が感じることができるのは翻訳の絶妙さもあるでしょう。
ちくま学芸文庫から出版されたバージョンは日本のスペイン美術史で有名な神吉敬三さんが翻訳されていますが、私はこのバージョンが一番好き。よくぞこの著書をこれほど上手に訳してくれたと思います。
 
 

『大衆の反逆』の誤解

 
 
翻訳がここまで上手であるにも関わらず、1つだけ惜しいことがあります。
それはタイトル。
 
 

本書のスペイン語タイトルは、 ”La rebelion de las Masas”
英語に置き換えると、”The Revolt of the Masses”です。

 
 
で、
 
 
日本語が『大衆の反逆』
 
 
確かにスペイン語の“rebelion”は英語でも“rebel”「反逆」の意であるので問題ないですね。
ですが、“las Masas”(西)/”the Masses”(英)は大衆というのは少し意訳しすぎた感じがあります。
 
 
“mass”マスコミュニケーションなどの言葉の接頭語にもなるように「大量の」とか「大規模な」というニュアンスが強い単語です。ですので正確に訳するなら「大量人」とかカタカナで「マス」でも良かったかもしれないんじゃないかと思います。
 
 
でも、もちろんキャッチコピーとしては「大衆」の方が明らかにファン、アンチ問わずあらゆる層の反応を得られます。 マーケ的にはCTR高い(笑)みたいな。
 
 
ただ、「大衆」というのは日本語では決してネガティブではない意味合いもありますよね。
「大衆の知恵」みたいな言葉もあるくらいですから。
 
 
こうした事情からか、本文の美しさとは裏腹に、このキャッチコピーミスは多くの筋肉反応をタイトルだけ読んだ層に与えました。
 
 
左派の人たちは本書を読む前に、
 
 
「き~っ、なんて高慢な奴なの」
 
 
となるし、われこそは貴族と思ってる上から目線な人は、
 
 
「オルテガはん、よくぞ申してくれた」
 
 
みたいな都合よい解釈を行います。
 
 

しかし、この両者の誤解はおそらく本書を大衆と貴族という2つの異なる人間の二項対立で捉えることが理由でしょう。
 
 
 
 

オルテガが伝えたかったこと。
 
 

それは、勇気ある生を送ることの大事さ、そして、難しさです。
 
 
したがって、こうした視点で見ると私にとってはオルテガのこの『大衆の反逆』は最高の自己啓発書であると思っています。大衆論として、世の中を二分化して分析するのではなく、あくまでも本書を読みながら振り返るその焦点は「自己」なんです。
 
 

ただ、オルテガはこの近代に生まれた私達の中に内包される「大衆」の側面「貴族」的側面。この両者を社会に存在する2つの層の人間に比喩しながら、「貴族的な生」とはなにかを問いたかったのではないかと思います。
 
 

実際、彼は本書の中で「貴族」の定義を下記の文章の中で説明しています。
私はこのフレーズ大好きなので暗記しています(笑)。
 
 
 
 

私にとって、貴族とはつねに自己を超越し、おのれの義務とそれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度を持っている勇敢な生の同義語である。
 
 
(英)For me, then, nobility is synonymous with a life of effort, ever set on excelling oneself, in passing beyond what one is to what one sets up as a duty and an obligation.

 
 

英語で“sysonymous”=「同義語」という単語が出てきます。
 
 

『貴族=努力する勇敢な生』
 
 

これが、オルテガの言いたかったことです。
この辺を読み飛ばした人は、オルテガを中世的な貴族主義者と断罪してしまいます。
 
 

そして、オルテガはこのようにも言っています。
 
 

われわれは、成長するに従って、大部分の男たちは――そして女たちも――外的必然に対する反応というような厳密な意味での強制されたもの以外、いかなる自発的な努力もなしえないものだということをいやというほど見せつけられる
 
 
それだけに、われわれが知り合ったきわめて数少ない、一般の人間には無縁な自発的な努力をなしうる人々は、われわれの体験の中にあって、ますます孤立化し、あたかも記念碑的存在となっていくのである。彼らこそ、選ばれたる人、高貴なる人、行動的な唯一の人、ただ反応に生きるだけでない人であり、彼らにとって生きるとは、不断の緊張であり、絶え間ない習練なのである。習練=áskesis。つまり、彼らは苦行者 (asceta) なのである

 
 

オルテガは如何に努力する生を送ることが難しいか
このことを何度も表現を変えながら本書で伝えています。
 
 
 
 

オルテガ=アドラー心理学?

こうした視点で上記の貴族の定義を紐解いていくとオルテガの思想の中にかなりアドラー心理学と重なる部分が多いことに気づきます。
 
 

オルテガはドイツに留学しています。また、アドラーもオルテガと同じ時代に生きた人です。オーストリアにいたアドラーの影響もあるのかと思ってググったりしてみましたが特段直接会って意見交換をした形跡はありません。ただ、オルテガが“philosophy of life” (生の哲学)のカテゴリに属する思想家とされることから見ても、どちらかというと哲学者というよりは、「より良く生きる」ことを考えた一派であると見ることもできるのかと思います。この姿勢は、自分を心理学者と扱われることをあまり好まなかったアドラーとも重なります。
 
 

実際、下記は『大衆の反逆』にある一文ですがアドラー心理学や『嫌われる勇気』、はたまた、『7つの習慣』を読んだ人には身近に感じるフレーズではないでしょうか?
 
 

われわれがこの世界――世界はつねにこの世界、現在のこの世界である――に落ち込むことによってはまり込む宿命というものは、まさにその逆である。われわれは一つの軌道を課せられるかわりに、いくつもの軌道を与えられ、したがって、選択することを余儀なくされているのである。われわれの生の状況とは、なんと驚くべき状況であろうか。
 
 
生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚することである。われわれの決断には、一瞬たりとも休むことが許されていない。したがって、われわれが絶望のあまり、ただなるがままにまかせる時でさえ、われわれは決断しないことを決断したといえるのである。

 
 

彼はシンプルにこのようにも語っています。
 
 

したがって、人生においては「環境が決定する」というのは誤りである。事実はまったく逆で、環境とはつねに更新するジレンマであり、それを前にしてわれわれが決断しなくてはならないのである。しかし、決定を下すのは、実はわれわれの性格である

 
 

このあたりは、アドラーの目的論に近い表現です。
 
最近でこそ、岸見一郎さんの『嫌われる影響』の影響でアドラー心理学は日本でも有名になりましたが、この時代はまだフロイトの原因論の方が心理学の主流です。直接原因論に喧嘩を投げかけるわけにはいかないので、大衆論・貴族論的な二項対立を模した書籍として目的論的な主張を練り込んでいったと見れなくもないですね。今回は軽く触れるだけにしますが、オルテガより少し年下になりますが、エーリッヒ・フロムはこの『大衆の反逆』(1929年)の時代からさらに10年を経て『自由からの逃走』(1941年)を発表しています。

 
 

「貴族」 と 「大衆」の対比は人間脳(意識)と動物脳(潜在意識)の比喩?

 
 

最後に、これは本ブログのテーマでもある脳科学的な視点でまとめてみようと思います。
先程紹介したフレーズにもありましたように、オルテガの定義するところの貴族とは“努力する生”であり、それは、苦行者(asceta)であると述べています。つまり、自分の人生の主人は自分であると強く自覚し、自分が信じることに向かって失敗にもへこたれずに努力を続ける人を彼は比喩的に貴族と呼んだのだと理解できます。なぜなら、そういう人が希少人種だからです。
 
 

一方、これに対比する形で大衆とは外的必然に対する反応という強制されることなくして自発的な努力のできない人と定義しています。さらにたちの悪いことに、こういう人は他の人と同じであることに安心し、そして、自分のことを分別ある立派な人間であるとすら思っています。
 
 
これは、近代という人類史における奇跡とも言える豊かさの中に突如生まれてしまった私達のあまりに恵まれた環境がもたらした傲慢さであるともいえるでしょう。
 
 

オルテガは、このように言っています。
 
 

“十九世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである

 
 
彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまうのである。これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。”

 
 

そして、ここで有名な「慢心しきったお坊ちゃん」という言葉を紹介しているのです。
 
 

この概念は、ニーチェのいう「畜群」と似ていますがオルテガは更にこの 「慢心しきったお坊ちゃん」という言葉をもちいることで、近代人の傲慢さについて警鐘を鳴らしたのかもしれません。
 
 

すこし、ここでアプローチを変えますがオルテガの言うようにまず、私達が悟るべきことは、
 
 
”生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚することである。”

 
 
といえるでしょう。
 
 
自覚するというのは、自分の脳を使うこと
そして、意識することです。

 
 
この意識し考える脳は人間のみに与えられた能力です。
脳科学的には、前頭前野をちゃんと考えることに使えよ、ともいえます。
 
 

逆に、とりあえず他の人がやってることに合わえてしまう。
外的な強制がないと行動を取れない人は動物と一緒だと言いたかったのかもしれません。
 
 

さいごに – オルテガは保守なのか自由主義なのか?

 
 
オルテガは日本では保守系の論壇で引用されることが多いので、保守主義者の系譜に名前がでてくることが多いようです。ですが、よくよく彼の書籍を読む限りはより古典的な自由主義者に近いのではという気がします。
 
 
確かに、脳筋的な自由主義者に対しては、下記のような厳しい言葉を本書で書いています。
 
 

ではいったいなぜ、三十年前の自由主義者、民主主義者、進歩主義者たちは今になって不平をいっているのであろうか。ひょっとして、彼らは、子供のように、あるものを欲しがりながら、その結果をわが身に受けるのは嫌だといっているのであろうか
 
 
平均人が主人公たることが彼らの理想であったはずである。それならば、平均人が自分の信ずるところに従って行動し、あらゆる享楽を要求し、決然として自分の意志を強行し、いっさいの隷従を拒否し、誰にもすなおに従わず、わが身とおのれの余暇を大切にし、風采を気にして着飾ったからといって、今さら驚くにはあたらないであろう。

 
 
このように、厳しい言葉を投げかける一方、オルテガは書籍全体を通じて、自由主義的デモクラシーと寛容の大事さを述べていることからも彼は自由主義を尊重していることが伺えます。また、彼自身も決してこの厳しい時代に絶望して閉塞したりすることなく、常に外に出て様々な人達と交流しています。言葉はキツイけどイイヤツなんでしょう(笑)。
 
 
彼が本質的に問いたかったのは我々近代に産み落とされたマス(本著で言う”大衆”)の中に眠る貴族的気質を呼び覚まし、より多くの人が勇敢なる生を生き、そして、異なる者たちと協力して社会を発展させることだったのではないでしょうか。決して彼は哲人政治を称賛しているわけではありません。
 
 

このあたりはフリードリヒ・ハイエクが保守主義者としてカテゴリされることと似ているような気がします。
 
 

確かに保守主義者は「言語、法律、慣習などの自生的に成長した制度の意味に理解を示したのであって、自由主義者はそこから利益を得たといってもよい」。しかし、「自由な成長にたいする保守主義者の賛美は一般に過去についてのみである。」保守主義者に足りないのは、「設計されざる変化を歓迎する勇気」である。一方、「自由主義の立場は勇気と確信にもとづき、どのような結果が生じるかを予想できなくても、変化の方向をその進むにまかせる態度に基礎を置いている。」(『ハイエク全集I-7』)

 
 
また、このあたりの議論は自分の頭がもう少し整理できたときにでも。
 
 
さいごに
 
たまたまこのエントリを読んでくれた人の中には、日々、トラブルと戦いながら資金繰りで頭を悩めている社長さんもいらっしゃると思います。それでも自分を信じて、そして、前に進みたいと思えるよう、本著から自分のお気に入りのフレーズを紹介して本エントリを終えたいと思います。
 
 
 

われわれが、すべての生に本質的に内在する不安感、つまりもしわれわれが一瞬一瞬をその核心まで生き、その小さなうごめく血なまぐさい内臓までも生きる術を知っていたとしたら感ずることのできる、あの苦しいしかし同時にすばらしい不安感とふたたび接触するにいたったことを意味するからである。誠実に生きた一瞬一瞬のみを小さな束の間の心臓として打ち続けるあの脈搏を、われわれはこわさのあまり自分の手で計ってみようとしないのが普通である。われわれは安心感をえようとして努力し、われわれの運命の根本的なドラマを感じまいとしてその上に、習慣や慣例や一般論などありとあらゆる麻酔薬をふりかけるのである。
 
 
真摯な態度で自己の存在に立ちむかい、自己の存在に全責任をもつ者はすべて、自分をつねに警戒態勢をとるように仕向けるようなある種の不安感を感ずるはずである。

 
 
いろんな不安や悩みを抱えながらも勇気を持って前に進んでいくこと大事さを再確認できる本です。
 
 


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